「日本酒を変えた」男 ~神亀・小川原良征“センム”の軌跡~
生涯の友、京都「京の春」向井義昶さんと小川原センム②

生涯の友、京都「京の春」向井義昶さんと小川原センム②

東京農業大学入学以来、「神亀」小川原センムと50年以上、公私ともに深い絆を生涯保ち続けた京都「京の春」醸造元の向井義昶(よしひさ)さん。向井さんとその家族だけが知るセンムの姿、後編です。

「本当に一本気で真面目。あんな奴、ほかにはいない」

東京農大醸造科で青春時代を送った同級生同士、京都府伊根町・向井酒造の向井義昶さんと埼玉県蓮田市・神亀酒造の小川原良征さんとは、半世紀以上にわたる友人関係を大切に守り続けてきた。農大時代の師・塚原寅次教授から「日本酒は、本来の造りである純米酒に戻らないと」という教えを聴き、生涯のテーマと出会った二人は、それぞれの蔵で純米酒の復権と啓蒙に取り組んでいく。互いの友人関係だけでなく、その親、その子どもたちも含めての家族ぐるみの交流は、まさに一蓮托生ともいうべき、運命共同体のような友情の在り方でもあった。

2010年には、向井酒造の杜氏を務めていた(義昶さんの長女)久仁子さんの12歳年下の弟・崇仁(たかひと)さんが東京農大醸造科を卒業。
「物心ついた時から『崇仁は、酒造りの名人になるんだもんな』『ウン!』って完全に洗脳されてました(笑)」という崇仁さんは、幼少期から蔵を継ぐことを前提に成長してきたという。2012年からは神亀酒造に蔵入りし、2年半の修業を重ねた。それを勧めたのは、父の義昶さんだ。
「小川原に、うちの息子を頼む、勉強させてやってくれと言いましたら、『おう、ちゃんと麹蓋を振れる*ようにして返してやるよ』って言ってくれましてね。修行中は、脂がギラギラのってるような旨い肉を食わせてくれたりして、息子のように可愛がってくれたようです」。

*酒造りで肝心要(かなめ)とされる麹造りの工程で、少ない容量で丁寧に手をかけて米麹を造るための道具が麹蓋。麹蓋を振るのは、麹の熱や湿気を分散させるため。神亀酒造では醸造する酒のすべてに麹蓋による米麹を用いている。

2015年、家族みんなが待っていた崇仁さんが伊根に戻り、生家の跡継ぎとして蔵に入った。杜氏の久仁子さんが孤軍奮闘するしかなかった時代、久仁子さんを心配した小川原さんは、電話口の向こうで計算機をはじきながら、仕込み配合の相談に乗ったりもしていたそうだ。けれども姉と弟の二人体制での酒造りが始まって以来、「京の春」の味わいは深みを増して、酒質が向上したという評価はいや増していく。その声に対して久仁子さんは「弟が帰ってきて、さらに一つ一つの作業に手をかけられるようになったから」と笑顔で答えている。「京の春」の高評価を喜んだのは、向井家だけではなく小川原家でも同様だった。

向井酒造の家族
笑いの絶えない父、弟、姉。一目で家族とわかる、よく似た表情の三人は、互いに助け合いながら全量純米蔵までの道を歩んできた。
向井酒造の手書き看板
向井酒造の手書き看板。直売所には、伊根満開の酒粕を用いたアイスクリーム、伊根名物の鯖のへしこ、オイルサーディン、ブルーベリージャムなど、酒以外にも魅力的な商品が並ぶ。

義昶さんは、2006年に伊根町長の職を満期辞職。町政に携わっている期間は多忙を極めていたため、なかなか小川原さんと会うことも叶わなかった。酒造りの現場は次世代に渡したものの、小川原さんが同時期に結成した「全量純米蔵をめざす会」に参加することで、再び小川原さんと頻繁に会う日々が戻ってきた。

2006年に最初の会のメンバーで集まった時に『おーい、小川原!』と大声で呼びかけたら、まわりの人たちが固まってました。『センムさんを呼び捨てにするなんて』と。私は『小川原は小川原じゃねえか』と言いましたけどね(笑)」。

久しぶりに会った小川原さんは、全量純米蔵を目指そうとする蔵元たちのリーダーとして尊敬を集める立場になっていた。
「勉強会を開いたり、田んぼに行ったり、イベント開いたり、心配な蔵を見に行ったり。小川原は、みんなのために走り回ってましたね。自分の蔵だけじゃなくて、ほかの蔵のみんなも売り上げを伸ばさなきゃだめだとあっちこっちの問屋に頼みこんで営業してくれたりね。酒のイベントの時なんかも、ハンドマイクで『今年の京の春、いい生酛ができましたよー』なんて叫んでくれたりしてね。他人のことなのに、自分のことのように動いていました」。

向井義昶会長
向井義昶会長。小川原センムと共に青春時代に過ごし、巷では“純米酒の神”的存在として畏怖されがちだったセンムと対等な友人関係を長く続けてきた。
向井酒造の酒
「京の春」シリーズから地元の漁師たちが愛飲する「豊漁」まで、向井酒造の酒はすべてが純米酒。古代米を原料に醸した「伊根満開」の銘柄名には、「伊根は最高の場所」と生まれた町に深い愛情を寄せる久仁子さんの思いが込められている。

2016年3月。出張先のフランスで小川原さんは、突然倒れ、現地の病院に緊急搬送される。その時の検査ですい臓がんのステージ4であることが判明。帰国後、再度の入院、手術を経て、病院と自宅を行き来する療養生活が始まる。義昶さんは折に触れ上京し、小川原さんを見舞った。
「みんなのために駆けまわって、それで寿命を縮めたようなところがありましたね。フランス出張だって、みんなで一緒に日本酒をフランスに輸出しようと言って、それで出かけて行って、倒れて帰ってきた。真面目だったからなあ。ほんとに一本気で真面目で」

向井酒造の事務所の壁
向井酒造の事務所には、センムの登場する新聞記事が飾られている。

一年間の闘病生活の後、2017年4月23日小川原さんは永眠。義昶さんは最後まで枕元に付き添った。通夜の席で、取材に来ていた地元の新聞記者に義昶さんは「神様は、いい人から連れていく」と語った。本当にいい奴。あんな奴は、ほかにはいない。ずっとそう思ってきた。
「亡くなったあと、一度だけ夢に出てきてくれたことがありましたね。小川原は黙って前を歩いてるんですよね。だから『おーい、小川原』と呼んだら、振り向いてニコッと笑って、また行ってしまった。私は『あんまり遠くに行くなよ』って言ったんだけど。連れて行かれちゃったよ、神さまに」。

美しい海
この美しい海は、最高の漁場でもある。眺めて良し、遊んで良し、釣って良しの伊根湾を臨む伊根町および丹後半島は、「海の京都」とも呼ばれ、多くの旅人を魅了している。向井一家が、遠来の客たちをもてなすために見せてくれるのもこの光景だ。

文:藤田千恵子 撮影:伊藤菜々子

藤田 千恵子

藤田 千恵子 (ライター)

ふじた・ちえこ 群馬県生まれ。日本酒、発酵食品・調味料、着物の世界を取材執筆するライター。dancyu日本酒特集にも寄稿多数。1980年代中盤に日本酒の業界紙でアルバイトしていたことがきっかけで神亀酒造・小川原良征氏と出会い、以後三十余年の親交を続ける。小川原氏の最晩年には、氏からの依頼で病床に通い、純米酒造りへの思い、提言を聞き取り記録した。