連載を読んでいただいてる方はご存じのとおり、「三好弥」は、とんかつ屋となったところも多いですが、洋食ベースのお店です。しかし、田端の「三好弥」は他の店では見なれない和食メニューがズラリ。洋食店から和食を扱う店に転換した二代目の信念とは。
明治38年3月まで常磐線の始発駅であった田端駅は、今では山手線29駅の中でも3番目に乗降客数が少ない駅としてそのホームと駅舎はこじんまりとしている。
武蔵野台地の縁にある駅から赤羽方面を向いて左手の高台が田端の町域であり、この町には明治後半から昭和初期にかけて、実に多くの芸術家や文人たちが暮らした。
最初に田端に住み着いた文化人は明治33年の洋画家・小杉放庵であり、彼に導かれて多くの芸術家たちがこの地に移り住んだ。
大正3年には芥川龍之介、5年には室生犀星が移住。その後は萩原朔太郎、平塚らいてう、菊池寛、堀辰雄、佐田稲子、林芙美子、サトウハチロー、中野重治ほか数々の文人、マルクス主義思想家の片山潜、のらくろを描いた漫画家・田河水泡など、当時の知識人たちが東西1キロ、南北700メートルの狭い町域に暮らし、足跡を残した。
田端は昭和20年4月13日の空襲でその町域は全焼した。今は狭い道路や路地に沿って住宅が建ち並び、戦前までの文化サロン的な町の名残りはもうない。
JR田端駅北口を出てバス通りに沿って左に進み、坂道を下ると他の三好弥とは少し毛色の違う田端・三好弥がある。
初代店主の杉崎勝美さんは中学卒業と同時に三河安城市から上京、江戸川橋・三好弥の神谷清一氏のもとで修業をした。やがてのれん分けを許された杉崎さんは清一氏の長女・禮子さんと結婚。昭和38年8月、この地に店を構えた。以前取り上げた江戸川橋・三好弥の先代おかみは禮子さんの次の妹、立石・三好弥のおかみ・碓井広子さんは末の妹にあたる。
杉崎勝美さんはすでに鬼籍に入り、今は2代目の且義さん(55)が、妻の麻紀さんとともに店をされている。
「子どもの頃からうちや江戸川橋の店を見てきたから、自分が店を継ぐものだと思ってました」と、且義さんは話す。
「料理人の仕事の大変さを見て育ちましたからね。どうせ継がなきゃいけないのなら、しばらくは外の世界を見たいと」。そう思って、会社員や飲食業など "外の世界"で経験を積み、店に入ったのは26歳のときだ。
ひと通り料理を覚えたころには、且義さんが中心になって店を回すようになった。12年前には店を新装。そのとき、1年ほど店を休んで京橋にある和食店で改めて料理を学んだ。
それを機に、三好弥一門の伝統である「洋食・中華」からスタイルを変えた。父親の勝美さんからは、「店を新しくしたら、お前の好きなようにやっていい」と言われたこともあり、三好弥の看板メニューであるとんかつや揚げ物は残したが、和食のメニューを増やし、料理に合う日本酒にも力を入れた。三好弥めぐりをする客が来ると、「ほかの三好弥さんとはずいぶん違いますね」と驚くそうだ。
「和食の奥の深さに目覚めたというか」と且義さんは笑う。週2、3回は築地市場に通い、季節ごとの旬の魚や野菜を仕入れるようにし、その習慣は豊洲に市場が移っても変わらない。仕入れた魚には神経締めを施し、鮮度を保ちつつ旨味を生かす工夫をしているとのこと。常に仲卸から新たな情報や知識をもらい、食材について学ぶことも怠らない。
「値が少し高くても、良い素材を買って日持ちをさせる工夫をすればロスも少ないし、うちのような値段設定でも十分に良いものが出せるんです」
「お客さんの好みに合わせた素材を選び、どんな味付けや料理にしようかと思いながら市場を回っているとうきうきします」
週に2、3回来てくれるお客もいるので、なるべく飽きない料理をと心がけている。
「この魚でいかに安くて美味しいものが提供できるかと、あれこれ考えながら魚をさばいているときは楽しいですよ」
お話をうかがっている間じゅう、且義さんの料理やご商売への思いが言葉の端々にあふれていた。客の顔を思い浮かべながら素材を選び、魚をさばく。そんな料理店が近くにあれば通いたくなるのは間違いがない。
文・写真:藤原亮司