晩御飯を毎日のように食べに行く馴染みの店。行くと同じく毎晩食べにくる顔なじみの客がいて、まるで家族の食卓のような会話がされ、店主も話の輪に加わる。あまり見られなくなったそんな光景が、今も続く三好弥が東尾久にありました。
細い路地の入り組んだ街に、建坪の小さな家が並ぶ荒川区尾久。現在の街の風景からは、一帯がかつて都内きっての遊興地であったとは想像がつかない。
大正3年にラジウム鉱泉が掘削されたことがきっかけとなり、何軒もの温泉宿が立ち並ぶ温泉街となった。のちに三業地として認可され、王子電気軌道(現・都営荒川線)の開通や大正11年のあらかわ遊園開業もあり、付近一帯がリゾート地となった。
猟奇殺人として名高い「阿部定事件」は1936年(昭和11年)5月18日、尾久三業地の待合「満佐喜」で起きた。
やがて昭和の高度経済成長期に入り、付近の工場による地下水汲み上げで鉱泉は枯渇。温泉街は昭和40年頃から徐々に廃れていった。しかし、1962年(昭和37年)には約3キロほど離れた南千住に大毎(現ロッテ)オリオンズが本拠地「東京スタジアム」を開業。あらかわ遊園から尾久三業地、東京スタジアムにかけての一帯は、下町の遊興地としてその後もしばらくは栄えた。
いまはもう、街には当時の面影を残す建物はなく、都電小台停留所前で営業を続ける割烹・熱海だけが、ほぼ唯一の名残りである。「東京スタジアム」は10年で閉鎖。都電荒川線沿線の企業や工場は地方へ移転、尾久三業地で宴会をする人々も減っていった。料理旅館や待合茶屋はマンションや住宅地に変わり、華やかかりし時代を偲ぶことはできない。
しかし、尾久にはいまも狭い地域に大小いくつもの商店街が残り、この一帯がかつて栄えていたことを示す。特に都電・熊野前電停付近から南へと伸びる熊野前商店街と、それに連結するおぐぎんざ商店街は合わせて約800メートルの長さがあり、多くの買い物客や学校帰りの子どもたちが行き交う。特に夕方にこの商店街を歩くと、「ああ、自分が子どもだったころの商店街はこんな感じだった」と、その賑わいに懐かしさを覚える。
商店街を外れ、150メートルほど進んだ場所に尾久・三好弥はある。
初めて訪れたのは今年3月のことだ。のれんをくぐると、開店間もない店にはすでに5人ほどの常連らしい客が集い、グラスを手に話に花が咲いている。席に着くと、接客係の女性が愛想よく迎えてくれた。4人がけテーブルが6卓並ぶ店の奥には厨房があり、おかみさんが料理をこなしているのが見えた。
壁に貼られたメニューにはとんかつやみそかつ、ポークソテー、オムライスなど、三好弥一門で馴染みのある洋食。ほかには煮魚に焼き魚、刺身、煮物、和え物など、酒の肴も豊富に揃っている。
このお店は愛知県高浜町出身の久米盛夫さんが、御徒町・三好弥の大岡則之さんのもとで10年間修業をし、昭和39年にのれん分けを許されて開業された。
いまはおかみの久米明美さん(78)が店を切り盛りし、娘の富永咲江さんと、息子の嫁である隆子さんが交代で接客をされている。ほがらかな客あしらいが、初来店の私の目にも居心地が良かった。
常連さんたちはその居心地のよさから、日々の食卓のようにこの店で夕飯を食べ、寝る前の一杯を引っ掛けて帰るのだろう。
少し酒が過ぎた客に「あらら、今日はちょっと酔っ払っちゃったね。豚汁飲んで覚ましてから帰るかい?」とおかみさんが言うと、馴染み客は素直にうなずき、豚汁ですっきりさせて帰路についた。
その日、8人ほどいたお客はみんな、ご近所の馴染みだ。新参者の私に何かと話しかけてくださり、街や店の歴史を教えてくれた。
「ここの大将はそりゃ男前だったよ。きっぷがよくてねえ。だから、新年会なんかに誘ってもらうと嬉しくてねえ」と、80歳ほどの男性が懐かしむ。
「昔は検番所もあってねえ。いつぐらいまでだったかなぁ。艶っぽい街でしたよ」
テレビ画面に流れる歌謡番組を見ながら、「ここのおかみさんは歌上手いんだよ」と馴染みの客は笑った。
今回、改めて話をうかがったおかみの明美さんは、若い頃はさぞ美人だったと思える顔立ちで、話しぶりもシャキシャキとされて、とても若々しい。ご主人とはいとこの紹介で見合いし、20歳のときに愛知県吉浜町(現・高浜市)から上京し、結婚されたとのことだ。
通常なら、三好弥一門では弟子を独立させるときは、ともに店を切り盛りする奥さんを半年ほど研修させて仕事を覚えさせる。しかし、すでにご主人の独立の時期が決まっていた尾久・三好弥では、飲食店で働いた経験もない明美さんは、いきなりおかみになった。
「いらっしゃいませ、も話せなかったんだもの」と、明美さんは当時を振り返る。
「(店で修業をする)若い衆もいるから使わないといけないし、主人もあんまりかばってくれなかったしね。まあ、若い衆ともたくさんぶつかったわよ」
手探りで仕事を覚え、経営をし、人を使う苦労も今となっては懐かしい昔話だ。
105歳を過ぎた夫の師匠のもとにはいまも頻繁に挨拶にうかがい、義理を欠かさない。
「うちの親方はほんとに立派な方でねえ。元気なうちに伝記を書いたらどうですかって何度も言ったんですけどねえ」と、おかみさんは残念そうに言った。
亡き夫に代わって店を切り盛りするようになって14年。おかみさんを慕うご近所さんたちに愛され、店を守り続けている。故郷の名物であるみそかつもメニューに加えた。
「みそかつをやろうって言ってたんだけど、主人は嫌がってやらなかったの」
どうしてですかと問うとおかみさんは、「さあ、男の意地ってそういうもんでしょ」と笑った。
ひと通り話を聞き終えたとき、おかみさんはテーブル席で話が弾む馴染みの客たちを見やりながら、「この店でみんなと会うのを楽しみに思ってくれてるんじゃないかな。有難いことですよ」と、とても柔らかい顔になった。
文・写真:藤原亮司