「三好弥」には昭和が残っていた~“実用洋食”一門の系譜をたどる~
大人気洋食店に受け継がれていた三好弥の面影|"実用洋食"三好弥一門の系譜をたどる⑦

大人気洋食店に受け継がれていた三好弥の面影|"実用洋食"三好弥一門の系譜をたどる⑦

清澄白河にある行列の絶えない「七福」。2016年12月号のdancyu本誌にも登場したことがある人気町洋食店なのですが、そののれんには三好弥一門の代名詞でもある“実用洋食”の文字が。しかもお品書きには伝統的な三好弥のメニューがずらりと並んでいます。一体、三好弥とはどのような関係なのでしょうか?

大正12年(1923年)に発生した関東大震災は各地に甚大な被害を及ぼし、本所・深川など下町を中心に燃え広がった火災は旧東京市の約43%を焦土と化した。
密集する木造家屋の延焼が被害を拡大させたことを教訓に、内務省は財団法人同潤会を設立。東京帝国大学工学部教授・内田祥三氏の研究室に鉄筋コンクリートの集合住宅設計を依頼する。大正15年8月に最初の同潤会アパートである「中野郷アパートメント」が竣工、昭和9年までに都内と横浜市の16か所に建設された。
戦前の名建築と言われるこのアパート群は、都市ガス、上下水道、ダストシュートなどを備え、エレベーターや共同浴場、食堂や売店が併設された物件もあった。当時の日本における最先端の集合住宅だった。
本所・深川には5か所(※)の同潤会アパートが建てられた。それらの建物は東京大空襲をも耐えた。火災から町を守る防火壁の役目は果たせなかったものの、建物自体は焼け残った。水道が完備されていたため、壁に水をかけて冷やし続けることで火災を免れたという。
その建築美が愛され保存を望む声もあったが老朽化には抗えず、2013年に上野下アパートメントが取り壊され、すべての同潤会アパートは姿を消した。

※同じく同潤会によって建てられた「猿江裏町・住利共同住宅」を含む

アパートメント

同潤会アパートを偲ばせる鉄筋コンクリートの建物が、江東区白河に残っている。清州橋通りに沿って建つ4階建て66戸、昭和8年竣工のアパート「清州寮」。かつては同じ通り沿い、わずか500メートルほど東に同潤会・清砂通アパートメントがあり、戦前のモダン建築が並び建っていた。
清砂通アパートメントは2002年に取り壊されたが、「清州寮」はいまも人びとが暮らす現役アパートとしてその圧倒的な存在感を示している。築67年を経てなお建物の美しさは人を惹きつけ、空室を待つ人が後を絶たない。
清砂通アパートメントが存在した場所の向かい、白河三丁目交差点の角に実用洋食・七福はある。

のれん

初めてこの店を訪れたとき、のれんに書かれた「実用洋食」という文字に驚いた。三好弥一門の代名詞のようなその言葉を謳っていることを不思議に思いながら、店先の行列に並んだ。
昨年11月の昼どきのことだ。店内はほぼ全席が客で埋まり、若おかみが飛び回るかのように注文を聞き、配膳をされていた。厨房は見えないものの、次から次へと入る注文をこなしてゆく鉄火場状態が目に浮かぶような忙しさだ。
しかし、忙しく立ち回るその合間には、「お待たせしてすいません!」、「次、ポークソテー取りかかりますね~。もうしばらくお待ちください!」とにこやかな声掛けを忘れず、バタバタ感を少しも感じさせない。
メニューには、とんかつや味噌かつ、海老フライなどの揚げ物、ポークソテーやハンバーグなどの洋食、カレーやオムライスに丼もの、ラーメンなどの麺類。そのラインナップはまさに、三好弥一門の伝統的メニューそのままである。

メニュー
オムライス

その日、注文したのはオムライス。みっちりと詰まったチキンライスが玉子で包まれ、ボリューム満点なのに味に飽きがこない。キャベツとかいわれが添えられ、みそ汁が付いて740円。この美味しさと量、店の立地でこの価格はお得すぎる。他のメニューを見ても、あと100円、200円高くても誰も文句を言わないはずだ。
とても満たされた気分で食事を終えたが、「ここは三好弥とどんな関係が?」と謎は残る。しかし、お話をうかがおうにも客は一向に途切れず、若おかみの手を止めることはできない。諦めて再訪することにした。

次の訪問では、昼どきが終わるころを見計らった。閉店45分前に到着すると、店の前には5人ほどの行列。その最後尾についたとたんに、店内から若おかみが出てこられ、のれんを下した。ぎりぎりセーフだ。
そのときはサービスランチをいただいた、エビフライ、カニコロッケ、鶏のから揚げ、オムレツ、ウインナー、マカロニ、生野菜がどーんと盛られたプレートに、ご飯、みそ汁が付いて960円。ご馳走のてんこ盛りである。
なるべくゆっくりご飯をいただき、やっと客がまばらになったころに会計に立った。もし違っていたら失礼だと躊躇しつつも、若おかみに「こちらは三好弥さんとご縁のあるお店ですか?」と問うと、「え、三好弥?ああ、ちょっとお待ちくださいね」と、厨房に入った。
「まあまあ、三好弥なんてそんな古いことを」と、笑いながらおかみさんが出てこられた。
「うちが三好弥と縁があるってどうしてご存じなの?」
「メニューの内容と、のれんに実用洋食と書いてあるので、もしかしたらご関係があるお店かと思いまして…」
「まあ、よく分かったわねえ。私は昔、三好弥で働いていたのよ」

白黒写真

愛知県高取町(現・高浜市)出身の小堀康子さん(旧姓・神谷)は幼くしてご両親を亡くし、父親の実家に引き取られた。中学を出ると上京し、おじが営む西新橋・三好弥で働き始めた。以来、おじである神谷修一氏が親代わりになった。
神谷修一氏は、三好弥創業者である長谷川好彌氏の妹と結婚し、田端新明町・三好弥を営んでいた神谷理一氏のもとで修業をし、西新橋・三好弥を開業。彼は非常にやり手で、西新橋、巴町、小伝馬町の三店を経営し、数多くの弟子にのれん分けさせた。三好弥のすそ野を拡げた功労者といえる。神谷理一氏と修一氏の関係はいまのところ不明だが、康子さんによると「2人ともおじ」とのことだ。

上京してからは、店の上階に男女従業員が雑魚寝状態で住み込みの生活。康子さんはもう一人の女性従業員と、階段下のわずかなスペースで寝起きした。朝7時半に起きて掃除をはじめ、夜は11時ごろまで休みなしで働き続ける毎日。
そんな暮らしも、「楽しかったですよ。家が厳しかったから、みんなが良くしてくれるのも嬉しくてねえ」と懐かしむ。「お前はうちから嫁に出すから」と、給料は同僚よりも少し安かったそうだが、休みの日にはおじが小遣いをくれることもあった。
妹も中学卒業後に上京し、三好弥で働く。のちに同僚と結婚し、いまは新富町・三好弥のおかみさんだ。
康子さんは21歳のとき、同い年の小堀満さんと結婚し、三好弥を離れる。満さんは港区魚籃坂にあった洋食店「七福」で修業をする料理人だった。七福もまた、店の上階で従業員は雑魚寝の暮らしで、ふたりは4畳半一間を与えられての新婚生活だ。ふすま一枚隔てた部屋には同僚たちが暮らしている。
「そういうもんだと思ってましたからねえ。なんとも思いませんでしたよ」と、康子さんは笑う。

三好弥と七福の縁は、栃木県出身で飲食店を営む木村重三氏が、店の経営について神谷修一氏に相談したことがきっかけだ。木村氏は改めて修一氏のもとで短期間修業をし、メニューや経営を自身の店に反映させた。
“三好弥スタイル”で七福は繁盛店となり、弟子をのれん分けさせて全4店となる。小堀さんご夫妻は昭和42年、独立して現在の場所に店を構えた。
「昔は工場や運送会社、倉庫なんかが多くてね。タクシーの運転手さんもよく来てくれましたよ」
飲食代を会社にツケて食べに来る社員も大勢いたそうだ。
「おおらかな時代ですよ。それで、毎月その会社にツケの集金に行くんです。あの頃はどの会社も景気が良かったんだなあ」

店主夫妻

満さんは修業時代、親方から叩き込まれたことがある。酒のつまみのようなものは置かないことと、夜12時過ぎて働くような店はダメ、ということだ。
「酒のつまみを置きだしたら、食べもの屋が飲み屋になっちゃうでしょ」。飲み屋や深夜営業が悪いということではなく、「本来の仕事を忘れるな」、「だらだらと仕事をしない」、ということだ。「実用洋食」の本文を忘れず、きちんとした食事を提供する。
その心意気ゆえに、メニューは独立当時からほぼ変えていない。そのラインナップは、昭和30年代、40年代に三好弥一門が作り上げた「実用洋食」を忠実に引き継いでいる。
時代は変わり、周辺にあった会社の多くは郊外に移転、跡地にはマンションが建った。右肩上がりの好景気も、社会のおおらかさも今はなく、ツケで食べる会社員もいない。それでもなお、七福の実用洋食は愛され続け、常に客が絶えない。
「こんなに繁盛している町の洋食屋さん、めったにないですよ」と感想を述べると、「きっと、このへんには食べもの屋が少ないからだねえ」と、ご夫婦は控えめに笑った。

店舗情報店舗情報

七福
  • 【住所】東京都江東区白河3‐9‐13
  • 【電話番号】03‐3641‐9312
  • 【営業時間】11:00~14:00(LO 13:45) 17:00~21:00(LO 20:45)
  • 【定休日】水曜 第1日曜
  • 【アクセス】東京メトロ「清澄白河駅」より5分

文・写真:藤原亮司

藤原 亮司

藤原 亮司 (ジャーナリスト/ジャパンプレス所属)

1967年生まれ。大阪府出身。1998年から継続してパレスチナ問題の取材を続けている。他に、シリア内戦、コソボ、レバノン、アフガニスタン、イラク、ヨルダン、トルコ、ウクライナなどにおいて、紛争や難民問題を取材。国内では在日コリアン、東日本大震災や原発被害を取材。著者に「ガザの空の下 それでも明日は来るし人は生きる」、共著に「戦争取材と自己責任」(ともにdZERO刊)。「下町の酒都」葛飾区立石に20年以上暮らし、海外取材に出ていないときは日々酒を飲む暮らし。