「三好弥」には昭和が残っていた~“実用洋食”一門の系譜をたどる~
往年のスターも通ったとんかつ屋|"実用洋食"三好弥一門の系譜をたどる⑥

往年のスターも通ったとんかつ屋|"実用洋食"三好弥一門の系譜をたどる⑥

やくざ同士の喧嘩やそれを治める親分。稽古の後にとんかつを食べに来る昭和のスターたち。そんな昭和の風景を、間近で見てきた新大橋の三好弥の後店主に町の歴史と思い出を聞きました。

街が変わっても息づく昭和の香り

東京都電36系統は錦糸町を始発電停とし、築地に至る路面電車だった。昭和46年3月18日に廃止されるまで、都民の足として重宝された。36系統は錦糸町を出たのち、住吉、菊川、森下の町を経て隅田川に架かる新大橋で対岸の浜町に渡る。そのたもとの町は新大橋という町名を残し、いまに至る。
新大橋は松尾芭蕉が俳句に詠み、歌川広重は浮世絵に描いた。フィンセント・ファン・ゴッホが広重の絵を模写した「雨の橋」もこの橋である。現在の新大橋はなんの趣きもない武骨な建築物だが、かつての都電が渡ったこの橋を今は都バス「錦11」系統がほぼ同じルートで走り、変わらずに行き交う人々を渡している。

戦災で町のほとんどが焼失した隅田川左岸の本所・深川は、江戸の頃から人々が暮らした町の面影は残っていない。いまの新大橋周辺はマンションやビルが立ち並び、風情のある景色とは言えない。しかし、近年は古くなったビルをリノベした隠れ家的な飲食店やセレクトショップも点在し、付近の庭園や神社仏閣、博物館・資料館などと併せて街歩きのスポットとして注目されている。そんな街に、新大橋・三好弥がある。

外観

店主の沓名勇二さん(80)は、愛知県吉浜村(現・高浜市)の中学卒業と同時に、同級生の大岡勝二さん、久米盛夫さんの3人でともに上京。沓名さんは新富町・三好弥で働き始めた。同級生もそれぞれ、大岡さんが大門・三好弥、久米さんは神保町・三好弥(店主は大岡勝二さんの祖父、則之氏)に就職した。

店主
新大橋三好弥の店主、沓名勇二さん。

いま知り得た限りではあるが、三好弥会の会長を務めた沓名さんや錦糸町・三好弥の鬼頭さん、長谷川好彌氏の孫である長谷川康弘さん(後述する長谷川好道氏の次男)の証言をもとに、ここで一門の系譜を整理しておきたい。
まず、初回で述べたように大正8年(1919年)、小石川柳町に最初の「三好彌」を創業させたのは、愛知県碧海郡高取村(のちに高浜町、現・高浜市)の富農だった、長谷川嘉市氏の長男・好彌氏である。彼は兄弟や親族・縁者を東京に呼んで修業をさせ、のちにのれん分けさせた。
以前取り上げた千束・三好弥の初代店主・佐々木光四郎氏は親族ではなかったが、縁があって好彌氏のもとで修業をし、その妹(嘉市の三女)と結婚した。

戦争が激しくなると、三好弥一門の中にはいったん三河に引き上げた人もいたと言われている。そのとき、三河出身でない千束・三好弥の佐々木さんは東京で店を続け、戦禍に遭われた。
好彌氏は昭和21年1月10日、都内で早逝されている。50歳だった。

戦後になり、好彌氏の弟である神楽坂・三好弥の長谷川嘉太郎氏(嘉市の三男)を中心に、それぞれの店を再開させてゆく。
それが前回に述べた、神楽坂、人形町(長谷川七郎氏、嘉市の次男)、向島(池島和夫氏、好彌次女の夫)、江戸川橋(神谷清一氏)、柳町(石川肇氏)、神保町(大岡則之氏)、小伝馬町(神谷修一氏)、竹町(長谷川隆一氏、好彌の親族)、新富町(長谷川四郎氏、隆一の弟)、大門(大岡巧氏)、黒門町(長谷川好道氏、好彌の次男)の11店であり、同じく戦後に店を再建した千束・三好弥を含めた12店が、東京で三好弥の「第2期」を作ってゆく。
また、田端新明町・三好弥の神谷理一氏(嘉市次女の夫)は三河に戻り安城市・三好弥を開業。この系統からも、少なくとも3店の三好弥が出ている。

話を新大橋・三好弥に戻す。
扉を開けると4人がけテーブルが4卓、2人がけが2卓。懐かしさを感じる昭和の定食屋さんの風情だ。几帳面な文字で書かれたメニューを見ると、とんかつや海老フライなどの揚げ物から鉄板焼き、ご飯もの、麺類、おつまみと至れり尽くせりの品ぞろえだ。

店内
年季を感じる店構えながらも清潔感ある店内。漫画が詰まった本棚が、懐かしい昭和の定食屋の雰囲気を醸し出している。
メニュー
壁には人気の揚げ物定食メニューが載っているが、スパゲッティやラーメンも揃えている。

昨年訪れたときは、「町会の仕事を終えた青年部」といった感じの人たちがたくさんの皿を並べ、昼酒を楽しんでおられた。ご近所さんに重宝されているお店に違いない。
今回は、3種類あるとんかつ定食のうち最も豪華な「C」をいただく。約160グラムの肉厚なロース肉はまさにご馳走。付け合わせの野菜も種類豊富でたっぷり。小鉢とみそ汁、漬物がついて1420円。さらにコーヒーとちょっとしたお菓子も付き、お値段以上の満足感がある。

とんかつ定食C

沓名勇二さんが新富町・三好弥で修業を始めたのは昭和30年のことだ。
「まだ学生服を着て、ボストンバックひとつで東京に来ました」と、当時を振り返る。他の三好弥同様に店の上階が寮になっており、同僚との雑魚寝生活。
「近所に日刊スポーツの印刷所がありましてね。夜中も輪転機が回っているもんだから、夜の2時でも出前があるんですよ。それが終わって銭湯に行くと、湯が汚れていて臭くってねえ」
休日には都電に乗って浅草に行き、3本立ての映画を見たりして時間をやり過ごした。
「月に2千円の安月給で、うち千円はオヤジ(店主)に預けて貯金。食べ盛りでしたが、外食もできませんでした」。後輩にメシもおごってやれないことが心苦しかったという。

河岸が近いせいか客には荒くれ者ややくざもいて、トラブルも多かったそうだ。酔っぱらうと他の客に因縁をつける。
「まだほんの子どもですから、えらいとこに来ちゃったなあと思いましたよ。警察もケンカぐらいじゃちゃんと仲裁もしてくれなくてね」。どうにもならないときは近所の「親分さん」に頼みに行き、鎮めてもらった。
「小柄な親分さんで、子分連中のほうがずっと体も大きいんですよ。だけど、子分一人ひとりにビンタしてね。なんていうか、凄味が違うんです」
今となってはやくざのケンカも懐かしい"昭和の風景"にも思えるが、親分さんに何かを頼めば、その度にお礼をしなければいけない世界だ。「オヤジは相当苦労したでしょう」。
この場所に見切りをつけたのか、「オヤジ」は数年後に高田馬場で新店を開業すると新富町を閉めた。沓名さんは同じ系列の旅篭町・三好弥(現在の秋葉原付近)へ移り、修業を続けた。

愛知県刈谷市から上京し、同じ店で働いていた3歳下の女性との交際が始まり、昭和39年の独立を機に結婚。当時、周辺には運送会社やタクシー会社、印刷所など会社が多くあり、店はすぐに繁盛店になった。近くには松竹の稽古場もあり、倍賞千恵子や財津一郎、蜷川幸雄なども食事に訪れたそうだ。
「地元から妹2人と若い衆2人を呼び、多いときは5、6人で店をやってました」。近所の会社員たちがランチに訪れ、夜勤明けのタクシー乗務員たちは昼酒を飲みにくる。昼夜を問わず出前の注文も入る。
「夢のような時代でした」。ほぼ1日中、客が途切れることはなかった。開店資金としてオヤジから借りた600万円も、わずか1年半で返済した。

しかし、昭和の経済成長は地価を高騰させて会社は郊外に移り、付近で働く人も減った。「マンションばっかりになっちゃって」と苦笑する。時代とともに街や食生活も変わってしまったが、今も店は地域に根付いて愛され続けている。
ともに上京した同級生の大岡勝二さんは東新橋・三好弥を開いたのち三河に帰り、「新橋」という店名のとんかつ店を営まれた。もう一人の同級生、久米盛夫さんは尾久・三好弥を開業。すでに鬼籍に入られ、おかみさんが店を守られている。
「私は恵まれていたと思います」と沓名さんは話す。
「こういう商売に就かなければ、田舎でうろちょろしとったかもしれません。一生こののれんにお世話になってこられて有り難かったですよ」
自らの人生をふり返るように、三好弥への思いを語った。

店舗情報店舗情報

新大橋・三好弥
  • 【住所】江東区新大橋2‐15‐1
  • 【電話番号】03‐3633‐0538
  • 【営業時間】11:00~22:00
  • 【定休日】水曜
  • 【アクセス】東京メトロ「森下」より7分

文・写真:藤原亮司

藤原 亮司

藤原 亮司 (ジャーナリスト/ジャパンプレス所属)

1967年生まれ。大阪府出身。1998年から継続してパレスチナ問題の取材を続けている。他に、シリア内戦、コソボ、レバノン、アフガニスタン、イラク、ヨルダン、トルコ、ウクライナなどにおいて、紛争や難民問題を取材。国内では在日コリアン、東日本大震災や原発被害を取材。著者に「ガザの空の下 それでも明日は来るし人は生きる」、共著に「戦争取材と自己責任」(ともにdZERO刊)。「下町の酒都」葛飾区立石に20年以上暮らし、海外取材に出ていないときは日々酒を飲む暮らし。