「三好弥」には昭和が残っていた~“実用洋食”一門の系譜をたどる~
弟弟子とつくりあげた"みそかつ"の味|"実用洋食"三好弥一門の系譜をたどる④

弟弟子とつくりあげた"みそかつ"の味|"実用洋食"三好弥一門の系譜をたどる④

日暮里駅から根岸方面へ向かう道すがら、可愛らしい店構えのレストランがあります。ここも三河にルーツを持つ三好弥一門のお店。そこには時代に合わせて進化をするために、努力を欠かさない料理人一家の姿がありました。

進化を続ける下町洋食店

JR山手線は上野から田端にかけて武蔵野台地の縁を走る。遠く青梅や川越から続く関東ローム層の台地は崖となってその地形が尽き、それより東側は沖積平野の低地となる。山手線の線路を境界線として「山の手」が終わり、東京の「下町」と呼ばれる地域が拡がってゆく。
日暮里駅を西口に出ると武蔵野台地上の台東区谷中の町域であり、付近には朝倉彫塑館や桜の名所として知られる谷中霊園があり、昭和の風情を残す谷中銀座商店街など坂や路地が入り組んだ人気の散策スポットがある。
反対側の駅東口に出るには10メートルほどの高低差を降りる。ここ荒川区東日暮里もかつては谷中と呼ばれ、江戸の地野菜「谷中生姜」が栽培された砂地の畑だったが、もちろん今は畑などなく「谷中生姜」は千葉や埼玉が主な産地になった。
2005年に着工した駅東口再開発によって3棟のタワーマンションや高層ビルが建ち、昭和の名残りはもうない。再開発前には多くの人が訪れた駅前の立ち食い蕎麦屋や純喫茶、町中華も立ち退き、菓子問屋街も消えた。周辺にはこの10年ほどで日本語学校が乱立し、町や行き交う人々の姿も変わったが、それもまた新型コロナウイルスの流行により変化しつつある。
駅前から根岸方面へと向かう日暮里繊維街を抜けたあたりに、東日暮里・三好弥がある。

外観

店には一枚の古い写真が飾られている。愛知県高浜町(現・高浜市)から上京し、長谷川好彌の孫弟子にあたる大門・三好弥の店主・大岡巧さんのもとで修業をされた長谷部鉐利さん(78)が、昭和42年7月31日に店を開業したときのものだ。のれんには「とんかつ 三好弥」と書かれている。
「9人きょうだいの6番目ですから、手に職をつけて自分で生きていかないと」と考え、中学卒業と同時に料理の道に進んだ。
10年を超える修業時代は店の二階で同僚たちと雑魚寝の生活。多いときは男女8人ほどが6畳間3部屋での共同生活をしていたという。大門の店はとても繁盛店で、夜11時半になっても出前が終わらない日もあったそうだ。休日は月に1日半しかなかった。
「今と違ってご飯も炭で炊くし、冷蔵庫もあるにはあったけど、氷を入れて冷やす木製のやつですよ」。日々練炭や氷を切らさないように準備し、今のように保管ができないので必要なぶんの食材を計算して仕入れる。当時の料理人は、料理を作る以前にかかる手間がとてつもない。

写真

同じく高浜町出身のおかみさん、洋子さん(77)とは修業時代に見合いで結婚した。鉐利さんのご実家の裏に洋子さんの姉が移り住んだことでご縁ができたとのこと。日本三大瓦と呼ばれる「三州瓦」の製造をする家業を手伝っていた洋子さんは当時19歳。
「都会に行きたくて仕方なかったんですよ」。だから、喜んで見合い話を受け入れたそうだ。鉐利さんの穏やかな性格にも惹かれ、見合いからわずか3度目の顔合わせで結婚を決めた。夫以外に知り合いもない東京での生活を即決するとは、当時の娘としては相当に思い切りがいい。
のれん分けが決まってからは洋子さんも大門・三好弥に7か月間住み込み、仕事を覚えた。
「お皿も一度に300枚も洗うことがあって、とにかく忙しいお店で。夜に仕事着を洗うときも、(住み込みの人数が多いので)洗濯桶は取り合いでね。先に取られたときは仕方ないから福神漬けの壺で洗濯したりして」。そのあと銭湯に行って汗を流すころには、日付けが変わっていることもざらだった。

独立してからも多忙な日は続いた。大門・三好弥では分業制でやっていた仕事も、夫婦ふたりでこなさなければならない。睡眠時間は4時間もあればいいほうだった。喜びも悲しみも夫婦でともに乗り越えて店を切り盛りし、2人の子どもを育て上げた。
繁盛店となってからも、料理と向き合う努力は惜しまなかった。高浜町に帰ってとんかつ店を営む弟弟子から三河名物「みそかつ」の作り方を習い、メニューに加えた。さらに、40歳を過ぎたころにはフランス料理のシェフを2年間講師に招き、ソースの作り方など基本から再修業をした。
「なんせ三好弥のは『実用洋食』ですからね。時代に合った料理を勉強しないと、と思って」と、おかみさんがその理由を代弁する。
しかし、40代前半といえば料理人としてはイケイケのころである。そんな時期に自分が10年もの時間をかけて学んだ技術を再考し、修業しなおすなど、思いつく人はいたとしても、それを実行する勇気と決断力がある人はどれほどいるだろうか。

3人の写真

現在は息子の利明さん(52)も加わり、父と二人で厨房を回している。利明さんもやはり、大手ホテルのレストランで長年修業を積んだのちに店を継いだ。それによってまた料理に幅が広がり、三好弥一門の伝統を守りつつも東日暮里・三好弥は進化を続けてゆく。店名もこの町にふさわしく「下町の小さなレストラン 三好弥」とした。
この取材中にも初めての客がふたり、店を訪れた。「表の看板にある、『みそかつ』がずっと気になっていて」。その客の出身も愛知県だという。
「こうして三河にちなんだ人が食べに来てくれるのも嬉しいんです」と、鉐利さんは言った。
「もう一回食べてみたい。そう思ってもらえる店でいたいと思ってます」。そこから始まる人とのつながりを大切にしたいのだとおかみさんは話す。食事を終えた客が帰るとき、おかみさんは必ず店先に出て頭を下げて見送る。雨が降り出すと、傘を持たない客には傘を渡す。そんな細やかな心遣いも多くの客を惹きつけてやまない。

みそとんかつ
看板メニューのみそとんかつ1,290円。

今春、利明さんの息子さんもまた、料理学校を卒業してホテルのレストランに勤めた。60年以上前に三河からやってきた料理人の家系は東京の下町に根付き、三代にわたって受け継がれてゆく。
「この先も三好弥は続いていきそうですね」と私が言うと、「孫の将来に口は出せませんからねえ」と、鉐利さんは笑顔を見せた。

店舗情報店舗情報

東日暮里・三好弥
  • 【住所】荒川区東日暮里4-2-19
  • 【電話番号】03-3891-5934
  • 【営業時間】11:00~14:30 17:00~20:00
  • 【定休日】日曜
  • 【アクセス】東京メトロ「三ノ輪駅」より10分

文・写真:藤原亮司

藤原 亮司

藤原 亮司 (ジャーナリスト/ジャパンプレス所属)

1967年生まれ。大阪府出身。1998年から継続してパレスチナ問題の取材を続けている。他に、シリア内戦、コソボ、レバノン、アフガニスタン、イラク、ヨルダン、トルコ、ウクライナなどにおいて、紛争や難民問題を取材。国内では在日コリアン、東日本大震災や原発被害を取材。著者に「ガザの空の下 それでも明日は来るし人は生きる」、共著に「戦争取材と自己責任」(ともにdZERO刊)。「下町の酒都」葛飾区立石に20年以上暮らし、海外取材に出ていないときは日々酒を飲む暮らし。