2020年8月号の第一特集は「カレーとスパイス。」です。旅行作家の石田ゆうすけさんは、インドを旅したとき、現地の人はみんな手で食べているのかと思っていたら、意外とスプーンで食べている光景を目にしました。自身も基本的にはスプーンで食べていたのですが、ある日、「手食」を体験しました。そこで味わったカレーの知らなかった一面とは――。
インドではカレーは手で食べるものとばかり思っていたら、食堂では毎回スプーンがついてきた。僕が外国人だからかもしれない。それを断って手で食べるのもなんだかかぶれている感じがするので、僕は素直に出されたスプーンを使って食べていた。インド人たちもわりと多くの人がスプーンを使っている。
ある日、ヒンズー教の聖地バラナシに着いた。
そこで友人を介してインド人の女子学生モニカと知り合った。16歳の聡明な子だ。インド社会の問題点を流暢な英語で鋭く指摘する。
集合住宅が密集している薄暗い一角に彼女の部屋はあった。ウナギの寝床のような細長い部屋に、シングルベッドがすっぽりと入っている。部屋の空間のほとんどがベッドだ。壁とベッドのあいだには人がやっと通れるほどの隙間しかない。トイレ、シャワーは共同。そんな部屋のなかに、壁かけの扇風機と、小さくて古ぼけたテレビがあった。デッキの一部が破損し、機械がむき出しになったラジカセもある。
予想していたよりいい暮らしをしているなと思った。彼女の一家は花売りで、恵まれた階級ではない。それでも学生の彼女にこんな部屋を借りてあげられるんだ。そう思っていたら、平手で顔を張られるような事実を告げられた。彼女の部屋ではなく、彼女を含めた家族6人の部屋だというのだ。
恐ろしいものを見るような思いで、あらためて部屋を見まわした。シングルベッドを父母と5歳の末っ子の3人が使い、ほかの3人の子どもはコンクリートの床に体をくっつけ合って寝ているらしい。
数日後、昼食をごちそうしてくれるというので、再び彼女の家に行った。
部屋に入ると、10歳の妹のジョイしかいなかった。モニカはまだ学校のようだ。
昼食はどうするんだろう、と思っていたら、なんとジョイが料理をつくり始めたのだ。
部屋の入り口のわずかなスペースに灯油コンロを置き、水を入れた鍋を火にかける。そこにピーマンやニンジンを切って放りこみ、マサラ(混合スパイス)を投入するのだが、なにせまだ子どもだ。おもちゃを手当たりしだいに破壊するような荒っぽい所作で、野菜のくずは飛び散るわ、鍋の水ははねるわ、床がどんどん汚れていくのだ。いくらなんでももう少し考えろ、と言いたくなるが、小さな女の子の投げやりな動きがおかしくておかしくて、僕は笑いっぱなしだ。そんな僕を見てジョイもニヤニヤ笑っている。
彼女は鍋でご飯を炊き、鉄板でチャパティまでつくった。めちゃくちゃに見えるが手際がいい。10歳の少女が家事をこなす国なのだ、と思った。
モニカが帰ってくると料理を囲んだ。彼女たちは手で食べている。僕もそれにならってやってみた。
意外にも、といえばジョイに失礼だが、ちゃんと旨いのだ。10歳児がヤケクソでつくったようにしか見えなかっただけに、感心してしまった。
次に、やってみてわかったのだが、手でカレーを食べるのはなかなか大変なのだ。カレーはスープのようにサラサラだし、ご飯にも粘り気がないので、指の隙間からポロポロこぼれてしまう。
モニカが笑いながらやり方を教えてくれた。右手の指を閉じてスプーンのような形にし、ひと口量のご飯とカレーを、閉じた4本の指先にのせる。それを自分の顔に近づけ、親指でシュッと料理を押し出して口に入れてやる。
この親指のシュッという使い方がポイントで、やってみるとなるほど、格段に食べやすくなった。
慣れてくるとやがてカレーの味のほうに意識が移り、目の前が開かれていくような心持ちになった。スプーンで食べるのとは明らかに味が違う。香りや歯触りに“手触り”が加わることで味が立体的に立ち上がり、香りの細かな粒子まで見えてくる気がする。
ますます興がわき、ご飯をすくってシュッと入れる動作がどんどん速くなっていった。するといつしか、すくってシュッ、すくってシュッ、のリズムが彼女たちと重なり、妙な一体感が生まれたのだ。
互いに膝や腕があたるほど身を寄せ合う狭い部屋のなかで、顔を突き合わせ、同じリズムで、シュッ、シュッ、と食べる。おもしろがっている僕を見て、モニカもジョイも笑っている。
壊れかけたラジカセから、インド映画のサントラがジリジリとすごい音で鳴っていた。そのノイズだらけの音は、かつて日本のお茶の間に流れていたラジオ放送を想起させるほどに、優雅に漂っていたのだった。
文:石田ゆうすけ 写真:安彦幸枝