片岡護シェフの歩みは、日本のイタリア料理が歩いてきた道でもある。1980年代、東洋の片隅で花開いた異国の料理は、2020年のいま百花繚乱。「アルポルト」は二代目の片岡宏之へとバトンを渡しながら、今日もまたイタリア料理の道を進んでいく。
東京ディズニーランドが千葉県浦安市に華々しくオープンした1983年、4月。
「アルポルト」も、また、西麻布の地にひっそりと看板を掲げた。
オープン当初、個人宅を改装したその佇まいは、まるで外国の絵本から抜け出たような愛らしい一軒家のレストランだった。19世紀英国のアンティークな扉を開ければ、店内は温かみのある調度品に包まれ、しっとりとした落ち着きに包まれていた。
当時、「西洋膳所 ジョンカナヤ 麻布」の料理長を経て青山に「ラ・ロシェル」をオーブさせていた坂井宏行シェフと並び、洋風懐石料理の第一人者として注目を集めていた片岡護シェフだったが、意外にも、オープン当初は閑古鳥が鳴く日々が続いたという。
「誰にも何も言わないで始めちゃったからね」
片岡シェフと「マリーエ」の契約は6年だった。とは言え、連日の大繁盛となれば、オーナーが、売れっ子シェフを手放したくないのは世の常である。話はお互い平行線。結局、半ば出奔するが如く「マリーエ」を辞めた片岡シェフ。自らの独立を客たちにはひと言も告げることなく店を後にしたのだった。
それが、「マリーエ」のオーナーだった五十嵐喜芳氏に対するせめてもの仁義であり、誠意でもあった。なにしろ、マネージャーを務めていた長子夫人も一緒に辞めることになったわけだから、五十嵐氏は怒り心頭に発したことだろう。
ちなみに片岡シェフと長子さんとは、この「マリーエ」のオープンと同時に知り合い、1年後には籍を入れていた。
独立して1ヶ月、2ヶ月、そして3ヶ月が経っても「アルポルト」の客足は鈍いままだった。そして8月。ポーカーフェイスを装うものの、さすがの片岡シェフも、内心、焦リ始めていた。
「もうすぐ夏休み。従業員のお給料をどうしよう……なんて考えちゃってね」
そこへ救いの神が現れた。女優の有馬稲子さんである。日本テレビの人に連れられてきた彼女の舌に、片岡シェフの料理はフィットしたのだろう。
「朝日新聞のコラムで、有馬さんがうちのことを書いてくれたんですよ。そうしたら、あっという間に満席になっちゃって」
客が来なくて大変だったときのことも、ブレイクしたときのことも同じように軽く笑いとばしながら語る片岡シェフ、そんな彼のスタンスがきっと福を呼ぶのだろう。
そうは言っても、マダムの長子さんの方はきっと気が気ではなかったに違いない……と思いきや、笑顔とともにこんな答え返ってきた。
「お客様は全然入らなかったけれど、この人の料理が受け入れられないはずがない、こんなに美味しいんだから。絶対にブレイクするはず、そう思ってました」
まさに夫唱婦随。この夫にしてこの妻あり、である。
ところで、「アルポルト」オープンの前年、日本のイタリア界を担う巨匠の店が誕生していた。そう、あの落合務シェフ率いる赤坂「グラナーダ」だ。どこか日本的な趣のある片岡シェフの小皿料理に対し、「グラナーダ」は本場そのままのスタイルがポリシー。最初は苦戦を強いられるも、イタリア政府観光局長に認められてからは口コミでイタリア人たちが足を運ぶようになり、それを見た日本人客も来店。本物のイタリア料理を求める人々で店は賑わっていた。
さらに、1985年には、いまに語り継がれる名店「バスタ・パスタ」が原宿は東郷神社前にオープンした。初代シェフは山田宏巳氏。現在、表参道で在りし日の「バスタ・パスタ」を彷彿とさせる「テストキッチンH」で陣頭指揮をとっている彼は、当時からイタリア料理界の風雲児。片岡シェフとも親交が深かった。
この「バスタ・パスタ」からは、「カノビアーノ」の植竹隆政シェフや「リストランテ濱崎」の濱崎龍一郎シェフなどの名シェフが輩出されている。
しかし、名シェフ輩出の度合いで言えば、それに先駆けること5年前、1980年にオープンした外苑前「ビザビ」に軍配があがる。
初代料理長を務めた山田宏巳シェフを皮切りに、現「カルミネ」のカルミネ・コッツェリーノシェフや元「アトーレ」の室井克義シェフ、そして現「ダノイ」の小野清彦シェフ等々、その後の日本イタリア料理界を牽引していく料理人達がキラ星の如く歴代シェフに名を連ねてるのだ(あの奇才、岡山「アッカ」の林冬青シェフも「ビザビ」出身)。
また、1986年オープンの外苑前「リストランテ山﨑」も忘れてはならない一軒。初代シェフは、当時「マルケージ」で修業していた弱冠24歳の寺島豊氏。マダムの山﨑順子さんの審美眼に狂いはなく、その後、厨房を預かる日高良美シェフ、濱崎龍一郎シェフ、武田匡弘シェフ等々、歴代のシェフらは何れ劣らぬ実力の持ち主ばかり。独立してからの活躍振りも周知の通りである。
ちなみに、いまも同店のスペシャリテである“冷製キャビアのカッペリーニ”をこの店にもたらしたのは初代の寺島シェフ。その味は、現在六代目になる矢島直樹シェフにもしっかり受け継がれている。
そして、1989年、恵比寿「イル・ボッカローネ」の誕生と共にいよいよイタリア料理の快進撃が始まる。いわゆる“イタメシ”ブームの到来だが、その萌芽は、先の「バスタ・パスタ」や1987年オープンの神楽坂「カルミネ」あたりから既に芽生えていたと個人的には考えている。1988年には、外苑前「ラ・パタータ」でシェフを務めた故平田勝シェフも独立。麻布十番に「クッチーナヒラタ」をオープンしている(ちなみに平田時代の「ラ・パタータ」には「ピアット・スズキ」の鈴木弥平シェフや「トラットリア・シチリアーナ・ドンチッチョ」の石川勉シェフの姿もあった)。
こうした下地があった上で、ボナセーラ店と異名をとった「イル・ボッカローネ」の出現により一気に花開いたのである。翌年1990年には日高良美シェフ率いる「アクアパッツア」が、続いて1991年には、「ダノイ」が共に西麻布に産声を上げている。
さて、「アルポルト」はといえば、1989年~1991年の2年間、改装のためにすぐ近くの仮店舗で営業していた。そして、1991年、一軒家からビルの地下へと移転リニューアル。立地は変わったものの、店内の瀟洒な趣は以前のまま。柔らかな光に包まれた店内は美味なさんざめきに揺れ、気品漂うジノリの白い皿に華奢な小皿料理がよく似合っていた。
余談になるが、「アルポルト」が改装中に営業していた跡地に、日高シェフが「アクアパッツァ」をオープンさせている。
この1980年代後半から1990年代後半にかけては、日本人にとってヨーロッパ各国料理のひとつに過ぎなかったイタリア料理が、確固たるジャンルとして認められた時代だったかもしれない。
俗に東京イタリアンと呼ばれる都会的な洗練されたイタリアンから郷土料理に感化されたオーソドックスなイタリア料理まで様々なスタイルのイタリア料理店が巷に溢れていく中、片岡シェフは、ぶれることなく自らの料理を粛々とつくり続けていた。
とは言え、流行に無頓着だったわけでは決してない。いや、むしろ敏感に反応して常に最新の情報を入手。いま、世の中はどう動き、人々は何を求めているのかーー。絶えず目を向け、分析していたようにも思う。
そんな中で、奇しくも片岡シェフがブームの担い手になったのが“ティラミス”だったとか。片岡シェフがこんな秘話を話してくれた。
「『Hanako』の取材でね、ティラミスのことをちょっと話したら紹介したいって言われて。で、雑誌に載せたらあっという間に人気になっちゃった」ということらしい。
2020年の4月に「アルポルト」は37周年を迎える。その長い道のりには、バブル崩壊から、湾岸戦争に続くリーマンショック、そして東日本大震災などなど様々な災禍に見舞われた日々もあった。それでも、無事に乗り越えていまがあるのは、料理の美味しさはもちろんだが、片岡シェフの時代の流れを読む力とその流行の取捨選択の巧みさ、加えて自らの足元と料理を見失わぬ謙虚さではないだろうか。流行ばかりを追っていては流される。といって旧態依然としたままでは店は風化するばかり。そのバランスの取り方が実に巧みなのだ。
確固たるイタリア料理界での地位を築き、巨匠の名を欲しいままにしてきたにも関わらず、片岡シェフはいつも物腰柔らかく衒いがない。
インタビューの最後、片岡シェフは、しみじみとした面持ちで意外な事実を語ってくれた
「実はね、僕、修業を始めた頃からずっとコンプレックスを持っていたんですよ。『クィーンアリス』の鍋ちゃん(石鍋裕)などは、15歳頃から料理の修業を始めて、フランスでは名だたるレストランできちんと修業もしてきている。それに比べたら、(僕は)イタリアで修業したといっても、レストランで働いていたわけでもなく、修業らしい修業はしていない。ほぼ独学。戻ってきて2年くらい『小川軒』にいただけでしょう。だから、いろんな本を読んだり、あちこち食べ歩いて勉強するしかない。イタリアにも幾度となく足を運びましたよ。他所で食べて美味しい料理があれば、それを自分なりのスタイルにしてとりいれてみたり、これでいいのかと自問自答しながら料理をつくっていたこともありましたね」
吹っ切れたのは40歳を過ぎた頃。手探りで作る料理を、お客が美味しいと笑顔で応えてくれる。その姿を見ていくうちにこれで良かったんだ、と自信がついていったそうだ。
現在、厨房を預かるのは息子の宏之さん、37歳。「アルポルト」と同い歳である。
父の背中を見て育った宏之さんにとって、料理人への道は小学生の頃からごく自然なこととして漠然と受け止めていたという。役者にしても料理人にしても名人の後継ぎはやりにくいものだろう。
たが、意外にもとうの宏之シェフは飄々としたもの。曰く「プレッシャーはまったくありません。比較されるものでもないし。そもそもが違う人間ですからね」。
どちらかと言えば、自らの勘と嗅覚で動きがちな(多分)父に対して、息子の方は現場を冷静に見て、分析しつつ事を運ぶタイプのように見えた。
父から受け継ぎ守るべきこと、改新すべきこと、それが何か、いまは慎重に判断する時期と考えているようだ。
「まずは、料理よりもサービス面の意識改革、そしてお店の営業の仕方から改善していかないと。とりあえず54席あった客席は35席に減らしました。料理は、それからですね」
きっぱりとした口調で語る一言一言には、
これからの「アルポルト」を担うべきは自分という矜持に溢れていた。
−−おわり。
文:森脇慶子 写真:吉澤健太