半世紀以上も前のこと。イタリア料理のことをほとんど知らずに渡伊した片岡護青年は、水分を吸収するスポンジのように、現地で見るもの、口にするもの、教わるもの、すべてを身につけていく。その間、5年。駆け出しだった料理人は、大きく成長をしていく。日本のイタリア料理界にとって、幸運な出来事だったと言えるだろう。
1968年4月、片岡護さんは外交官だった金倉栄一氏に請われ、南太平洋周りでイタリアへと飛び立った。途中、ニューデリーとテヘランで乗り継ぎ、ローマ経由でミラノに辿り着いたのは、ちょうど20歳の春のことである。
当時、東京のイタリア料理店といえば、六本木にあった「アントニオ」を始め、ピザの「ニコラス」や「シシリア」、そして「キャンティ飯倉本店」などまだまだ数えるほどしかなく、一般的にはイタリア料理=スパゲティにピザ程度の認識が関の山。ましてやインターネットもなかったこの時代、イタリアへの旅路は、まさに想像と未知の世界への第一歩だったことだろう。見るもの聞くものすべてが片岡さんの若い感性を刺激したことは想像にかたくない。
「ミラノのドゥオーモ広場に立ったときは、圧倒されましたね。歴史の重みを感じて、こんな文化のあるところで、果たしてこれから立ち向かっていけるのだろうかーー。大変なところにきてしまったなぁと身震いする思いだった」そうだ。
とはいえ、もう後戻りはできない。かくして、曲がりなりにもミラノ総領事館の料理人となった片岡さん、その行く手には楽しくも不惜身命の日々が待っていた。
イタリアに来たからからといって、来る日も来る日もイタリア料理ばかりをつくっていたわけではなかった。「ごはんをつくるのは1日3回。昼はイタリアン、夜は日本食。が、来客がない日の通常サイクルでした。料理長とはいっても、ろくに修業経験のない僕にとって田村の親父さん(築地「田村」の田村平治さん)から頂いた著書と金倉さんの奥様が、料理の先生でした」
この言葉の通り、奥様に怒られながら見よう見真似で天ぷらを揚げたり、焼鳥を焼いたりと悪戦苦闘。必死で料理に取り組む日々が続いた。
「豆腐も手づくりしていましたよ。北海道の大豆を東京から取り寄せて挑戦してみたものの、最初のうちは豆腐の形にならなくてね、おからやがんもどきにして食べたものです。食材は決して無駄にしないということだけは最初から心に決めていました」
数々の失敗を重ねつつも、天性の舌と料理のセンスがあったのだろう。片岡さんは、少しづつ少しづつ腕をあげていった。
食への探求心、美味しいものへの好奇心も人一倍だったのだろう。限られた中でいかに活用したら良いか、そんな知恵も、日々の繰り返しの中で自ずと身についていった。
知恵と言えばこんなエピソードを教えてくれた。
「新鮮な魚介を仕入れに市場に行くんだけどね、“クエスト クァント コスタ(これいくら?)”ぐらいしか言えない東洋人の若造が、いきなり魚を買いに行ったってろくに相手になんてしてくれない。“お前に売るものなんてないよ!”っていう態度で、軽く鼻であしらわれてしまうんです」
そこで、一計を案じた片岡さん。ある日、ウイスキーやタバコを携えて市場へ。魚屋の主人にそっとチップがわりに渡すと……「それからガラッと態度が変わってね。僕が行くと手招きして呼びつけて、どれでもおまえの気に入った魚を好きに選べって極上の魚を出してくれるようになった」のだとか。
おかげで、時には日本のマグロにもヒケをとらない上質のマグロを手に入れ、鮨パーティを開いたこともあったそうだ。
休みの日には、金倉さんの紹介で、料理上手なマンマがいるイタリア人の知人宅に行き、ご馳走になった家庭料理のつくり方を教わったり、評判のレストランを食べ歩いては自らの舌を磨くことに専念した。
そして、ミラノに来て2~3年が経った頃、運命的なリストランテと出会う。金倉さんが勧めてくれたリストランテ「ダリーノ」である。
日本人の胃袋では到底太刀打ちできぬほどの量が当たり前のイタリアのリストランテにあって、この店では、まるで日本の懐石料理のような小皿料理が10数皿ほど、少しづつ供せられたという。自分が漠然と頭に描いていたスタイルが、いま、現実として目の前にある。その驚きと喜び!「ダリーノ」との出会いが、片岡さんに自らの進むべき道を示唆したと言っても過言ではない。彼の脳裡には、将来、目指すべきレストランの青写真が朧げながらも浮かびあがっていた。
さらにもう一軒のレストランがその思いを決定づけた。それが、ミラノの「アルポルト」。魚料理の有名店で、店内にはその日おすすめの新鮮な魚が並び、客がその中から好みの魚介を選んで好きな調理法をオーダーするというシステムが人気を呼んでいた。そのスタイルに驚き、すっかり魅了された片岡さん、仕事の合間を縫っては研修に行っていたという。後日、独立に際し、店主ドメニコ氏の了承を得て、この店の名前をもらいうけたことからもその思いの深さが伝わってくる。
生活のすべてが、ひとつの目的のために集約される日々。それを経験するのは若ければ若いほど実りが多い。20代の片岡さんにとって、イタリアでの生活は、まさにそうした充実の5年間だったに違いない。このイタリアでの様々な経験が片岡さんの原点であり、幹を太く形づくった時期だったのだろう。
イタリアに赴任すること5年、25歳になった片岡さんは帰国の途に着いた。
時に1973年。この年、「エノテカ・ピンキオーリ」の前身であるワインバーがフィレンツェに誕生。1977年には、現代イタリア料理の父と呼ばれるクアトロ・マルケージがミラノに店を出すなど、折しも時代は、ヌォーバクッチーナ前夜。エポックメイキングの鼓動が聞こえ始めていた。
――つづく。
文:森脇慶子 写真:吉澤健太