イタリアンレストラン。その言葉が一般的になったのはいつくらいだろうか。歴史を辿れば、実は遠い昔のことではなく、年号をひとつ遡れば事足りくらいのこと。光陰矢の如し。もちろん、日本のイタリア料理にも黎明期はある。これから語る片岡護シェフとアルポルトの物語は、まさにその当時のことである。
日本の食卓でも、いまやすっかりお馴染みとなった“パスタ”。そしてイタリア料理は、街場でも気軽に食べられる身近な存在として、もはやフランス料理以上に親しまれている。
だが、それもここ20年から30年くらいの話だろう。いわゆる“イタメシブーム”が、日本の食シーンを席巻したのは1980年代後半。まさにバブル真っ盛り、昭和から平成へと時代が動いた時期である。
1988(平成元)年にオープンした、通称“ボナセーラ店”こと東京は恵比寿の「イル・ボッカローネ」が、その火付け役と言われているが、それより遡ること10年ほど前から、その萌芽は少しずつ東京には現れ始めていた。
西麻布「カピトリーノ」の吉川敏明シェフ、赤坂「グラナータ」の落合努シェフ、外苑前「ラ パタータ」の平田勝シェフに、原宿「パスタパスタ」の山田宏巳シェフなど、イタリア帰国組の料理人たちが腕を振るうイタリア料理店が次々とオープン。当時の感度の高いフーディーたちの注視をすでに集め始めていたからだ。
その最先端にいたひとりが、自他共に認めるイタリアンの巨匠、西麻布「アルポルト」の片岡護シェフである。
ちなみに、日本で初めて本格的なイタリア料理店ができたのは、文明開化たけなわの1881(明治14)年。場所は(意外にも)新潟。曲馬団の賄い料理人だったイタリア人ピエトロ・ミリオーレが始めた「イタリア軒」がそれで、現存する最古のイタリア料理店でもある。
一方、日本人による最初の本格的イタリア料理店といえば、言わずと知れた東京・六本木の「キャンティ」。川添浩史、梶子夫妻によって、1960(昭和35)年にオープンしたこの店は、三島由紀夫、安部公房ら当時の文化人、著名人たちが集うサロン的レストランとして、いまも数多くの都市伝説が語り継がれている。
とはいえ、当時の一般庶民にとって本格的なイタリア料理などまだまだ未知の存在で、イタリア料理といえば洋食屋で食べるスパゲッティナポリタンやミートソース、グラタンに似非ピッツァ!?ぐらいの知識しかなかったことだろう。
片岡護シェフが、人生の転機のきっかけとなる“カルボナーラ”を初めて口にしたのは、まさにそんな時代。高度成長期に沸く1960年代のことだ。
戦後まもない1948年9月15日に生を受けた片岡シェフは、男ばかり4人兄弟の末っ子として生まれた。
彼が生まれてすぐに父親が亡くなり、母親は女手ひとつで4人の男の子を育て上げた。現在のように、女性の働き口がままならなかった時代、その苦労は並大抵なものではなかったろう。片岡シェフが懐かしげに語る。
「部屋がいっぱいある家だったので、下宿屋として部屋を貸す一方、母は内職や家政婦の仕事もしていましたね」
その家政婦の仕事先が、外交官だった金倉英一氏の御宅。まさに、この縁こそが将来の片岡少年の人生に大きな影響を与えることになろうとは、本人はもとより、誰も想像だにしなかっただろう。
人生というのは、どこに転機が転がっているのかわからない。
ある時、母親がもらってきた金倉氏の奥様手づくりのカルボナーラ。すっかり冷め切っていたにも関わらず、それを口にした瞬間、「世の中にはこんなに美味しいものがあったんだ!」と、中学生だった片岡少年は、思わず目を見張った。
「そりゃそうですよね。当時、あまり口にしたことのないチーズがたっぷりとかかっていて、ベーコンも入っている。僕にとっては、いまでも忘れられない感動的な味でした」
だからといって、それですぐ料理人なろうと思ったわけでは決してなかった。
この頃、片岡シェフは工業デザイナーになるべく芸大を目指していた。しかし、世の中そうそう生易しいものではない。2浪して、さて、この先は3浪すべきか否か迷っていた時に、金倉さんのひと言がふっと頭をよぎった。
「もし芸大に落ちたら、コックになって私についてきなさい」
子供がいなかった金倉さんは、小さい頃から母親について遊びに来る片岡少年を可愛いがり、何かにつけて目をかけてくれた。
片岡シェフ自身も、どこか父親の面影を追っていたのかもしれない。
そうだ、イタリアに行こう!
料理の経験などゼロに等しかったにも関わらず、そう決断できたのは、金倉さんへの信頼度がそれだけ強かった証だろう。
「でもね、後から聞いた話なんですけど、金倉さん、本当は僕を励ますつもりでそう言っただけで、そんなつもりはサラサラなかったみたいなんです(笑)」
いまでは笑い話だが、当時、金倉さんもかなり焦ったに違いない。けれども、いまさらダメとは言えない。その気満々の片岡少年を見て、金倉さん自身もきっと腹をくくったのだろう。
或いは、幼い頃から見てきた片岡少年の味覚の確かさに、少なからず気づいていたのかもしれない。
何はともあれ、とりあえずは修業を。ということで、片岡少年は築地「田村」に預けられる。
ミラノ領事に就任した金倉さんと共に旅立つまでの3ヶ月間、ひたすら野菜を刻む日々が続いた。
後先を見ずに飛び込む勇気。側から見れば無謀極まりないことも、何かを一途に信じることで、自ずと道は開けるものだ。
金倉さんについて行けばなんとかなる――そんな思いと、未知のイタリアへの憧れ。中学生の時に食べたカルボナーラの舌の記憶も片岡さんをイタリアへと後押しした。
まさに背水の陣。とにかくがむしゃらに突き進むしかない。
「僕にとって、イタリア料理の原点はパスタ。ようし、向こうに行ったらパスタを極めよう」
そんな思いを胸にイタリアへと旅だった。
――つづく。
文:森脇慶子 写真:吉澤健太