自転車で新宿を走れば、これまで見えていなかった景色と出会い、気がつかなかった喫茶店にめぐり合う。今まで新宿にはどんなイメージを持っていたんだろう。この日、知って驚いたってことは、目にした風景とは違う印象を抱いていたんだろうな。
戦後闇市から続く「岐阜屋」は、新宿駅前の一等地で税込み430円というラーメンを提供しており、食べてみるといろんな意味で予想を覆してくれた。
このクラシカルな店に対して、次に向かうのは、同じく新宿の、もしかしたら最先端かもしれない店だ。「地球と体にやさしいラーメン」を標榜し、CO2削減のために店主は己の呼吸回数を減らしているらしい。申し訳ないが最初その話を聞いたときは腹を抱えて笑ってしまった。
そこに向かう前に、腹ごなしに新宿をポタリングしよう。
関西人の僕にとって、新宿といえば高層ビル群のイメージばかりだったが、新宿にほど近い中央線沿いに住み、新宿界隈を歩くようになってからは印象が変わった。古き良き時代の香りがそこかしこに残っているのだ。
さらに今回、自転車に乗って広範囲に、かつ子細に見てまわると、新宿の印象がますます変わった。ひなびた田舎でもそうそうお目にかかれないようなデカダンスに遭遇するのだ。
雰囲気の違うエリアに入ったな、と思ったらゲイタウンとして世界的にも有名な新宿2丁目だった。ウィキペディアによると、ゲイバーなどがこの小さな区域になんと約450軒もあるらしい。マッチョな男子の裸のポスターが貼られたアダルトグッズショップなんかも目についた。
そんなエリアのすぐ隣に公立の小学校が立っていたりする。
しかも4階建て、と都心部の小学校とは思えない規模だ。子どもの多いベッドタウンでも4階建てはなかなかないんじゃないだろうか。
ここ新宿1丁目は新宿の外れだけれど、それでも新宿駅まで徒歩15分ほどの距離だ。子連れ世帯がそんなに住んでいるのだろうか?と思った瞬間、あ、そっか、とひとり合点した。災害時の役割が求められているんだ。
帰宅後、ネットで調べたら、この巨大小学校の児童数はなんと、各学年20人前後で、全校生徒は141人だった。お隣のゲイバーの数の3分の1……。
もとい。この新宿1丁目まで来ると、マンションや昔ながらの団地もあり、生活感も古さもあった。路地をしらみつぶしにまわり、“お宝”を探す。
お、発見。コンクリートジャングルに“ポツンと一軒家”。
寺もあった。イチョウが金色に色づいている(12月でした)。表札には「太宗寺」。
その中の「閻魔堂」に近づき、格子戸越しに覗いてみると、暗くてよく見えない。戸の横にボタンがあるのに気づき、押してみると、明かりがつき、ワッとのけぞった。でかっ!
大きさだけでなく、造形も表情も、そしてライトで突然現れる演出も、まるでテーマパークみたいだ、と思った。よくできている。案内板には「子供のしつけのため参拝されてきた」とあった。スマホを使いこなすようないまの子どもにも効果があるんじゃないだろうか。それぐらい迫力がある。民話の風情が、新宿のような町にいまも残っているのだとしたら、なんだか温かいな。閻魔大王の話はどんどん子どもにすればいいのだ。道徳心に影響すると思う。自分の幼少期を振り返ると、少なくとも僕には非常に効果的だった。ウソをついたら舌を抜かれるとか、めっちゃ怖かったもん。
近くの新宿御苑も見にいった。中に入らなくても見事な紅葉が楽しめる(12月でした)。
再び新宿1丁目の町に戻り、さっきポタリング中に見つけて気になっていた“昭和喫茶”へ向かった。
ドアを開けると、3坪ぐらいの小さな店に、琥珀色の光が灯っている。秘密基地風のバーといった様子だ。ふふ、また当たりだな。というより、古い喫茶店に入ってイマイチだった試しがない。時間が染みついて“味”になるのだ。それに時間の淘汰もある。いい店だけが残っていく。
いらっしゃいませ、と笑顔で迎えてくれたママにこの企画の趣旨を話し、掲載させてもらえないか訊いてみると、店主と思しき男性が「すみませんねぇ。前にもネットの記事に載ったとき、混雑しちゃって、常連さんに迷惑かけたんです」と申し訳なさそうに言った。ああ、心のある店だ。「うちはそういうの断ってるから」とにべもなく撥ねつける店は少なくないのだ(ま、突撃取材をするこっちが悪いのだけれど)。
「じゃあお店の名前出しませんから」と僕は食い下がった。新宿にもこういう店がある、ということを伝えたい。店主は意外そうな顔をして「うちはいいけど、好きにしてもらえたら……でもそれでいいの?」と笑った。
メニューを見て驚いた。ブレンドで350円、ストレートも軒並み400円で、しかも税込み。ブルーマウンテンでさえ600円だ。さらには壁に「今週のサービスコーヒー、グアテマラ350円」とある。ストレートのコーヒーをこの価格で飲める店なんて、新宿じゃなくてもなかなかないんじゃないだろうか。
グアテマラとトーストを頼んだ。店主は豆を挽き、サイフォンに入れる。コポコポと音が鳴る。
「ずっとこの値段なんですか?」
「値上げしそこなったんです」
店主もママも笑う。1971年創業らしい。
「最後に値上げしたのは20年前になるかしら」
そのあいだ豆は何度も値上がりした。
「あと消費税も、何度か」
フフッ、とふたりは笑う。
増税は値上げをする口実にもなったはずだ。それなのに、消費税が10%に上がってもコーヒー1杯は350円のまま。税込みの値段だから、増税分はすべて店の負担だ。
途切れなく客がやってきた。ほとんどが顔なじみのようで、店に入ってくると店主にあいさつし、言葉を交わす。ほがらかな笑いが起こる。値上げできないのは、お客さんの顔が浮かぶからだろうな。
ふと、いまいるところが新宿だと思い出し、奇妙な心持ちがした。旅先の田舎でふらりと喫茶店に入ったような気分になっていたのだ。
新宿という“記号”でとらえているから、意外に感じるんだろうな。人がいるのだ。人が住む町だ。
お客さんの軽口に、店主もママもフフッと笑う。3坪の店でふたり、50年。
基地、やはりその言葉がしっくりくる。半世紀かけて、人と時間によって醸され磨かれ、完成された“基地”。くるくると回る忙しない時間が、澱が沈むように落ち着いていく。
僕はコーヒーをお代わりし、文庫本を取り出した。外はまだ明るかった。
――つづく。
文・写真:石田ゆうすけ