世界は広い。知らないことがたくさんある。お菓子に誘われて、たどり着いた先が蕎麦屋だったなんてことは、そうそうある話ではないけれど、現実にあったんです。雑司ヶ谷で出会い、小岩へ向かいます。
東京は小岩にある「カゼトソラ」店主の大森大和さんとの出会いは、偶然だった。雑司が谷の大鳥神社。はるのパン祭りというイベントの日。境内はパン好き女子で溢れ、見渡す限り女子女子女子と、女子校の文化祭のようだった。そこに、いきなり、男性の雄叫びが響いた。
「手づくりマドレーヌ、いかがですか~!」
赤いバンダナのおじさんがいた。アジア雑貨の店とか、骨董屋にいそうな、高円寺っぽいおじさんが、どの女子より楽しそうに、はしゃいでいる。そしてなぜか、高円寺おじさんのまわりには、女子だかりができていた。
「このマドレーヌはね、岡山から取り寄せた卵を使っててね。放牧された自然の鳥の卵で、懐かしい味わいなの。バターも、ニュージーランドで放牧された牛さんのバターを使っていて~」
えっ、おじさん、マドレーヌつくるんだ。しかも、結構マニアック。見た目とのギャップに戸惑いながらも、試食を見つけ、いただきます。えっ、なにこれ、すごくおいしい!
「これ、おじさんがつくったんですか?」
思わず尋ねてしまった。卵がじんわり染み込んだ、やわらかいマドレーヌ。ホームメイドならではのやさしい味わい。ちゃっかり、ほかのお菓子の試食もいただき、この日はマドレーヌはもちろん、猫ちゃんのショートブレッド、ロシアンティーケイク、くるみのタルトを買った。
有名なお店なのかな。帰り道、紙袋の中に入っていた、ショップカードを見て驚いた。
「江戸川区小岩の築70年の古民家にある蕎麦屋です」
あのおじさん、蕎麦屋の店主なの?
「蕎麦屋 カゼトソラ 小岩」
検索する。
「完全予約制、週3日夜のみ営業、料理はコースのみ」
むむむ。なんかハードル高い。しかも蕎麦屋というより、その佇まいは夏の特番でやる稲川淳二の怪談話に出てくる古民家みたいだ。店内の写真を見て、ぎょっとする。暗闇の中で光る赤や青の提灯、どれも影絵のように幻想的だけど、ちょっと妖しい。ここ、蕎麦屋だよね?
あのマドレーヌをつくるあのおじさんは、どんな蕎麦を出すんだろう。んー、気になる。私の中の興味の虫がムクリと首をもたげる。
「よし。来週、食べに行ってみよう!」
予約メールの返事は、スグだった。
「来週は中華ナイトというイベントで、蕎麦ではなく、ラーメンになります。よろしいですか?お料理は、中華っぽいものに、お肉もすこし。ベジョータランクのイベリコ豚です」
えっ、中華ナイト?ラーメン?蕎麦屋じゃないの?謎は深まるばかり。
中華ナイト、当日。
グーグルマップに導かれるまま、小岩駅から10分。まっすぐな道をずんずん歩く。目的地の赤い矢印のところには、古びた日本家屋。たぶん、ここだな。ここなんだけど、確証がない。表札もない、看板もない。でも玄関には、赤いビールケースと、蚊帳素材の暖簾。やっぱり、ここだよ、ね?
家の中の様子をうかがってみる。
「あ、あの、ごめんくださーい」
「はーい、どうぞいらっしゃい」
甲高いおじさんの声がした。あの声だ。そして、あの日と同じ赤いバンダナをした、高円寺おじさんが出てきた。お店に来た経緯を話すと、「それはそれは」と、これまた甲高く笑い、中に招き入れてくれた。
木造床がギシギシと鳴る。白熱灯で光る厨房脇を通り過ぎ、障子のドアを開く。その先は、うす暗い和室、いや、小宇宙だった。赤や青の小惑星が浮かび、草履や鼻メガネなどガラクタが彷徨う、幻想的(?)な世界が広がっていた。星の影絵に、手をかざしてみる。なんだ、これは!?
「それでは、中華ナイトを始めさせていただきます」
高円寺おじさんの宣言とともに、小岩の「カゼトソラ」にて、中華ナイトが幕を開けた。
――つづく。
文:朝野小夏 写真:鈴木泰介