シリーズ4回目で、ついに蕎麦の登場である。蕎麦屋の話であるんだけれどもね。そして供される蕎麦が実に個性的。細い。さらには与えられた時間は30秒。えっ、与えられた時間って、何?
薄暗い部屋の一室を赤や青のひょうたん惑星が照らし、草履や粘土人形など思い出のガラクタが彷徨っている。その下には、昭和初期の足掛けミシンが。お酒の勢いもあって、思わず自分がどこにいるのかわからなくなってしまう。ここは、どこだっけ?
そうか、ここは小岩にある蕎麦屋「カゼトソラ」か。
「そろそろ、お蕎麦にしましょうか」
ゴッホおじさんこと、「カゼトソラ」店主の大森大和さんが言った。
「30秒で召し上がっていただきたいので、ご準備のほうをお願いします」
30秒??ゴッホおじさんは振り向きもせずそそくさと、厨房の方に消えていった。
ドツガガガガガガ!!!!!
地面が割れる音が響く。なにごと?すごい地響きだ。思わず、厨房へ駆けつけた。ミキサーで氷を砕いていたようだ。そして、台所は緊迫していた。
「おとうさん、お願いします」
グツグツに沸騰した鉄鍋、氷水たっぷりの大きなボウル、木の板には粉を落とした蕎麦が置かれてある。隣で構えているのは、ゴッホおじさんの妻の宏美さんだ。
「よし」
ゴッホおじさんはうなずく。その後は、あっという間だった。ずばっと鉄鍋に蕎麦を投入し、泳がせること5秒、ざばっとザルで掬い、ざくっと氷水ボールへ。えっ、もう出来上がりだという。急いで席に戻ると、ゴッホおじさんも駆け足で、もり蕎麦を片手に追いかけてきた。やばい。追い抜かれる。
席について、早速いただく。何しろ30秒で食べないとならないのだ。素麺みたいな細麺だなあ。するするっと喉を通る、滑らかなのどごし。次から次へと胃袋に流れていく。啜るたびに、ふわっと香るそばの香り。蕎麦つゆから感じる鰹節のおもかげ。
「『奈川在来』という、長野の高地で育った、在来種の蕎麦でね」
「奈川在来」、またの名は「天昇のそば」。どんなに豪風にやられても、翌朝には天の方へ穂先を向け起き上がる。そのたくましい前向きな姿勢からそう呼ばれているらしい。それを長野から取り寄せ、東京の小岩で実を整え、今度は山形の雪室で2年ほど熟成させ、その都度、ブレンド製粉しているという。手間暇かかっているなあ。もしかして、ラーメンに流派があるように、それはどこかの流派なの?
「自己流ですよ。初めて蕎麦打ちの手ほどきを受けたのは、観光地によくあるような蕎麦屋でね。カナダ産の蕎麦を使っちゃうような店だったけど、なぜか自家製粉からやってて。そこでコツ掴んで、後は試行錯誤」
その後は、一旦蕎麦から離れ、大阪や沖縄、南アジアの方を旅し、落ち着いた頃、新宿区西落合に蕎麦屋を開いた。そして、ちょうど5年前。小岩でこの店「カゼトソラ」を始めた。そういえば、この店の名前「カゼトソラ」は、どんな意味なんだろう?
「意味ねえ……」
さっきまで、あんなに饒舌だったのに。ゴッホおじさんは、急に静かになった。自作の「星月夜」のことを聞いても、同じ。黙りこくってしまう。もう、飲むしかないな。
大きな月星夜の下照らされ、ゆるゆる酔いながら、大地の食物とお酒をいただく。飲みすぎかな。ああ、なんだか、自分が風になって、この空間を、ふわりふわりと漂い始めてるような。気がつくと、ビュンビュン音が耳をかすめていく。天井を見るとはるか遠くに輝く月星夜。下を見ると、さっきまでいたはずの大地。あれ、小岩の蕎麦屋だよね?
ふわっと大地を彷徨、陶酔体験。なるほど、わかったぞ。バラバラだと思っていた、月星夜、大地の食とお酒、お店の名前が、私の中でひとつになった。「カゼトソラ」って、そういうことなんだ。きっと、この空間で感じるこの体験に、名前をつけたんだ。さすが、ゴッホおじさん。私は、勝手に納得し、ほろ酔いのカゼに任せ、体を揺らしていると、またまた意外なひと言に酔いを覚まされた。
「でも、これからの時期のうちのメインは、デザートなんですよ」
――つづく。
文:朝野小夏 写真:鈴木泰介