本を読むことで、遠い国の過去の話が蘇ってくる瞬間がある。このときが、そうだった。クラブとはいかなるもので、サロンとはどのような存在なのか。果てには、なぜ人はひとりじゃないのか、なぜ人は集うのか。そのひとつの答えがクラブとサロンにあり、読書はその一端を担い、喫茶は重要な役割を果たしている。
「クラブ」に続いて「サロン」の始まりへと読み進む。
言葉の響きからも想像されるように「サロン」の発生はフランスにある。そもそもは宮廷内に開かれたようだが、その文化が伸びやかに広まりだしたのは、タテの関係に拘束されない個人宅からであったようだ。後に大規模な「サロン」もできるが、「発生においては私的な親密な、こじんまりとした集まり」だった。
「一七世紀には、現在、私たちがサロンと呼んでいる集会は、この名称では呼ばれていなかった。ランブィエ公爵夫人は、実際に体が弱く、ことに冬場は一日の大半をベッドですごしていたため、親しい客は「サロン」ではなく寝室に迎え入れていた。」
「サロン」という言葉には、どこか洒落たイメージがあるが、体の弱い公爵夫人が親しい客人と語り合いたい、という「サロン」の始まりの動機は、とてもささやかでピュアな印象がある。「クラブ」が交流を求めた純粋な場から、情報を交換する場として発展していったのに対して、「サロン」はコミュニケーションの楽しさを追求して広まっていった。
「自宅のサロンに人を招く」ということは「客好きの国民性と、時代の要請が一致し」、一気にフランス全土に広がり一世を風靡したようだ。
サロンの広がりの中で、特筆しておきたいのは、当時は女性も学問をかじったり科学者を気取ることが最先端であったということ。「みずから化粧品や美容食や、秘薬をつくること」さえも中産階級のサロンで大流行していたということだ。
「白い肌をひきたてるためにおしゃれ女が発明したツケボクロは、都風の美容部品とあって、地方にひろまる。ボルドーではおむすびのゴマのように顔じゅうに五〇何個もほくろをつけて得意になっている女がいたと記録にある。」
いま思うと噴飯ものだが、時間を経て振り返った最先端ファッションや流行というのはいつの時代も似たようなものなのかもしない。現代にも通じる厳しい言葉が続く。
「発生の原理も考えず自己の水準もかえりみず、やみくもに模倣すれば、ただの猿まねにおちいるのは必定である。才女たちは極端に走って滑稽のかぎりをつくす。」
「ヘアサロン」「エステティックサロン」「ネイルサロン」くらいまでは理解できるが、美を求めて極端に走りすぎれば「滑稽のかぎり」といった様相になりかねない。美容関連の場所に「サロン」の名が付されているのは、このあたりに源流がありそうだ。
「クラブ」「サロン」とその始まりを見てきたが、夜の繁華街に数多存在しているクラブの源流はどこらへんにあるのだろうか。イギリス、フランスに続いて、1920年代にヨーロッパの文化の中心に躍り出たドイツ、ベルリンにフォーカスした章を読めば、見えてくる。タイトルは「狂乱の昼、歓楽の夜」である。一部、引いてみよう。
「当時のベルリンはさまざまな大衆文化の発酵の地として花開いていたが、その一方で、「ベルリンそのものがあらゆる欲望の終着駅」となっていた。」
「ここには「夜の生活(ナハト・レーベン)」があり、ヴァリエテ、レヴューといったあらゆる見世物があり、芸術的カバレットがあった。アヴァンギャルドと政治がその沸点を見出し、ロシア亡命者と遊民(フラヌール)が混淆文化を形成し、モルヒネとコカインが狂乱と狂気と享楽をつくりだしていた。」
「あらゆる欲望の終着駅」「狂乱と狂気と享楽」と、予想以上にたがが外れた表現が続く。ヴァリエテ、レビュー、カバレットといったものは、バラエティーショーや歌と踊りのショーのことである。たがが外れているとはいえ、舞台のある見世物であれば、欲望の横にも常に華やかさと最低限の品位がセットになっているものだが、歓楽の場はそれ以外のところにも多く偏在していたようだ。
「街頭には娼婦が溢れていたし、売春を売りものにした名もなきカフェーやナイト・クラブも数知れなかった。今日、それらのなかで名を残しているものは、高級であったか、特殊であったかのいずれかである。」
「ベルリンのナハト・レーベンのこれは、ほんの一断面である。政治と経済の混乱の間に生じたこのひたすら消費的な性は、確かに何も生み出さなかった。しかし、こうした歓楽の場が、当時のベルリンの一つの“空気”を醸成していたといってもまちがいではないだろう。そしてこの“空気”が時代特有の文学や芸術を生み出したのである。」
時代として、ここまで欲望の渦巻く時期は特殊かもれないが、いまの日本でも歓楽の場は、各地に存在し続けている。銀座や六本木に代表される高級クラブから地方都市に点在するクラブ、いかがわしさも多分に含んだ場末のクラブは数知れない。
こうした「歓楽の場」は、確かに何も生み出さないかもしれないが、光が闇なくしては存在しないように、または、純度が高すぎる空気では生物は生存できないように、こういった場所はいつの世にも必要なのだろう。
歓楽の場に「クラブ」の名を目にするのは、人の集う場所が常に闇の部分も抱えていることの名残りなのかもしれない。
こうして見ていくと、いまの「クラブ」「サロン」と名のつくものは、ほぼその歴史の流れに織り込まれている。イギリスの様々な趣味のクラブ、フランスで流行したサロン、ベルリンの歓楽街、そのどれもが、ほとんど同じような形で、現代の日本に見い出せる。歴史は繰り返す、というように時代が変わっても人間の営みはそれほど変わらないのかもしれない。副題に「なぜ人びとは集うのか」とあるが、その答えを本の中から探ってみる。
「人は、一人では生きにくい。人間は人間同士で群れたがる。社交への欲求は人間の主要な本能の一つであるといえよう。……人が集まれば必ず話をする。たわいのない世間話で気晴らしをすることにはじまり、もう少し進んで感情や心情を満たす対話を交わし、さらに意味のある話、役にたつことや、人に伝える価値あることを語り合う。……会話はときとしてゲームに近づき、手軽な楽しみから創造的で生産的な文学の域にまで到達することもある。」
いまに残る有名クラブや、最高級の知性の集まったサロン、それらのどれもが元をたどれば「人は、一人では生きにくい」というひと言に収斂していく。
端的に言えば「人は寂しい」ということかもしれない。だから人は集まる。その始まりの場がフランスでは「寝室」「応接間」であり、イギリスでは「コーヒー・ハウス」だった。
「たとえばコーヒー・ハウス、つまり喫茶店が存在するのは街頭です。喫茶店にたむろする人は一時的にせよ共同体から離脱して、何ものでもない「私」になっています。
……そこでは何ものでもない「私」が、つまり共同体から解放された複数の「私」がであったり交錯したりする。たとえば一九世紀ロンドンのコーヒー・ハウスはこのような出会いや諸個人の交錯を制度化した場所として発生したと思います。」
何ものでもない「私」という指摘は鋭い。会社や学校といった共同体は、自分より先に既にあるが「クラブ」「サロン」といった場は自発的に始まる。「一人では生きにくい」「私」たちが集まり、そこに集まった人々の性質や、何かになりたいという気持ちが交錯していく。そう考えると、「クラブ」「サロン」とは、特定の時代や場所で、何ものでもない「私」たちが集まり、出会い混じることによって結晶化したものなのかもしれない。
本から目を離すと、しばらくの間、書物の中で長い旅をしてきたようで、時差ボケのような気分になる。今日の書物が少し重厚だったからか、長距離の旅になってしまった。
本を机において、ゆっくりとひと呼吸つけば、改めて広々とした壁に掛けられた猪熊弦一郎の絵画が目につく。彼も偉大な画家であるとともに、世界的な彫刻家イサム・ノグチや、東京都庁や代々木第一体育館を建てた建築家の丹下健三などを香川県に紹介し、さまざまな文化的ネットワークを形成した。イサム・ノグチ庭園美術館や香川県庁舎などは、いまも全国に誇る地元の名所となっている。彼もまた全国を代表するクラブの主催者、サロンの主人だったとも考えられる。
もしかしたらこの喫茶空間も、高松の文化情報装置のひとつとして機能していたかもしれない。そう思うと、壁面の絵画や通路に配されたオブジェの前に、かつての文化人たちの面影を見るような気がする。
心地よい疲れとともにゆったりと階段を下って、きつね色の瓦せんべいたちを背に店を後にする。
帰り道に眺める高松の町には、明かりが灯り、居酒屋の席をポツポツと仕事帰りのサラリーマンが席を埋めている。ここもまた「何ものでもない「私」」たちの集う、ひとつのクラブ・サロンと言えるのかもしれない。
気障な考えに支配されながら、私もまた、何ものでもない私として、誰かと集う場所を求めて、町をさまよい歩いていく。
――「くつわ堂 総本店」と『クラブとサロン』の回(了)
高松琴平電気鉄道。人呼んで「ことでん」は香川県でこよなく愛されている私鉄である。香川県を走る電車はJRと「ことでん」の2線。高松の路面を走り、町中を進む電車は県民の足として欠かせない存在である。
しかしながら、かつては現在のように愛される存在ではなかったようだ。サービスに対する評判は上々とは言えず、さらには事業拡大の失敗によって、2001年に倒産の憂き目に遭った。県民からそっぽを向かれる寸前に支援が決まり、「ことでん」として生まれ変わる(以前は琴電、コトデンなどと表記されていた)。マスコットキャラクターのイルカの「ことちゃん」は、存続か廃止かに揺れる中で「琴電はいるか、いらないか」との議論から、イルカに決まったという(なんと!)。
民事再生法申請後は、金曜の夜に深夜便を走らせたり、温泉や映画館とのコラボチケットの発売、ICカード「IruCa」の導入など、さまざまな施策を打ち出し、サービスにも力を入れ、ならではの企画を生み出し、信頼を回復していく。
ちなみに、瓦町駅一番ホームの出発メロディは、くるり書き下ろしの「コトコト電車」である。
文:川上洋平 写真:佐伯慎亮