圧倒的な中身を備えた一冊に出会うと、時空も現世も飛び越えて、未知なる彼方へと意識が誘われていく。嗚呼、素晴らしき読書体験。身を置く空間が持つ資質も大きい。「但馬屋珈琲店」と『味覺極樂』との相性に悦ぶ。
今日、手にする一冊は、その名を『味覺極樂』という。箱の表には、渋みがかった黄色の縦縞と装画の上に「味覺極樂」と旧字体で、威風堂々とした書体が印字されている。書物の世界の入口にそびえる大門のごとき風格ある装幀である。本体を箱から引き出せば、箱の重厚感に反して意外に軽やかな重さで手に馴染み、どこか濃厚な料理も軽やかに食わせる名店の味わいを期待させる。
本書は、当時新聞記者だった著者が、政治家、事業家、仏道の僧侶から、文化人、名店の主人まで、様々な道の通人たちに、「あれは、美味かった」という話を聞き集めまとめたものだ。
さまざまに極楽を感じるときはあれ、「ああ、あのときの食事は美味かった、幸せだった」と感じる食の体験は誰しもあるだろう。特に印象に残るような食事であれば、後からその思い出に身を委ねるだけでも愉しい。
この本が書かれたのはいまから遡ること90年以上前、新聞で掲載が始まったのは昭和2年である。どこか別の本で、稀代の文化人類学者、山口昌男さんが「いつの時代にでも戻れるというならば、迷うことなく昭和一桁代に戻りたい」と、それくらいあの時代は面白かった、というようなことを書いていた記憶があるがどうだろう。
目次をのぞくと、「資生堂主人」「銀座千疋屋主人」「増上寺大僧正」「東京駅長」「赤坂虎屋」「宮内省厨司長」といった、いまも名を残す肩書きに目がいくくらいで、ほとんどの語り手の名は知らない。
この本の著者であり、聞き書した新聞記者というのは、「東京日日新聞」の社会部遊軍・梅谷記者、後の、子母澤寛である。彼は「新選組三部作」や『勝海舟』『座頭市』などで知られる歴史小説家で、「新選組三部作」は司馬遼太郎や池波正太郎を介して、いまの新選組のイメージに大きく影響を与えている。
また、その聞き書きにおいても、文庫版の後書きによると、「東京日日新聞」の前、読売新聞社会部に勤めていたときからすでに、彼の右に出る者がなかったといわれるほどだという。けっして聞き書きの対手の前でメモをとることはせず、すべて記憶によってまとめた。当時、メモを取る記者の前では何もしゃべらない人が多く、メモをとらずにまとめられたからこそ、新聞記者嫌いの大御所たちの好感を得て、その話を記事にすることができたのだ。
さて、大いなる期待をもって読み始めてしまったが、序盤からその期待をまったく裏切らない。ひとり目の対手は、石黒忠悳。明治初期に西洋医学を日本に取り入れた功労者で、日本赤十字社の社長も務めた人物。軍医の草分けであり、森鴎外の上官でもあった。このときはすでに隠居して悠々自適だった頃のようだが、その話はすこぶる面白い。牛込早稲田に住んでいた、赤沢閑甫という茶人の話。
「わしは友人五、六と共にこの庵へ招かれたことがある。老人は貧乏、すべて簡素なこしらえで、……型通りに品は出るが、この汁(味噌しる)の実がしじみ貝、やきものが薩摩いもであった。……わしは汁を吸いながら貝のからを一つ一つお椀の蓋の上へ並べてみた。……しじみの貝がみんな同じ大きさで、つまり粒を揃えたところに老人の心がまえがある。金がないので心で食わせる料理であった。近頃は同じ茶をやってもただ贅沢ばかりで、こんなおもむきのあることをする主人はいなくなった。」
もうひとつ、かつて山谷にあり、江戸時代から続く料理屋「八百善」の話。
「むかしの「八百善」というものはえらかった。ある時「きょう鯛がありませんので平目のお刺身です」との挨拶だった……ここでの会を済ませすぐその足で、……二百名ばかり集まる宴会へ出席すると、こちらは立派な鯛がずらりとお膳についている。それをお土産に持ち帰って、家内へこのことを話すと「どうも驚いたものです、この鯛は河岸では三等品、八百善は、自分の家で使う鯛がないと申した次第でしょう」とのことだ。
その後に、昼少し前に御飯を食べに立ち寄ると、……いかにも立派な魚ばかり、どんな小魚でも一等品であるので、わしも家内も舌を巻いた。」
まだひとり目、しかもほんの数ページにこれだけの密度である。早くも「昭和一桁代の面白さ」に圧倒される。さらに読み進んでみても、一筋縄では生まれえない滋味深い小咄のオンパレードだ。またどれも食の話であることには変わりないが、その文章の調子には、それぞれの人物の語り口が再現されていて、味覚にまつわる話の中に、語り手の人柄が浮かび上がってくる。
早くも圧倒された気持ちを立て直すため、顔でも洗おうと手洗いへと席を外す。手洗い場は二階。階段を上ると、その先には「雪隠」と記された扉がある。「雪隠」とはトイレを意味する言葉で、茶会などでも使われる上品な言い回しである。
ピクトグラムも独特で、「TOILET」という表記は、海外の利用者も多いためしょうがなく付けざるを得なかったと店の人は言う。
そう言えば、メニューの表紙にはかなり古い書物からとったようなデザインが見られ気になっていたが、すべてのメニューの表紙を変えているという。江戸の道具類が絵入りで書かれたものや、読めなくとも図として面白い昔の文字が並んだものなどあって、一通り並べられると雰囲気がある。
「雪隠」から下へ降りると、よく見たら店の隅には大黒天の置物が置かれていたり、木材の階段側面には、経年で日に焼けた京都、愛宕神社の「火迺要慎」の札が貼ってあったりと、細々したディテールの演出にも気が利いていて、こういうところがまた店の雰囲気を形づくっている。偶然、この本とも時代感が近しく、今日の読書体験に興を添えてくれているかのようだ。
席に戻り、さらに読み進んでいく。文章を追うほどに行間から旨味がにじみ出てくるかのようで、その文章はすこぶる豊かながら、どこかこの時代ならではの共通点のようなものも浮かび上がってくる。まずは増上寺、道重大僧正の話。
「飯ぢやがね。これはつめたいに限る。……本當の飯の味が知りたいなら、冬少しこごっているくらいのひや飯へ水をかけて、ゆっくりゆっくりと沢庵で食べて見る事ぢや」
「豆腐の一番うまいのは生のままへ醤油をかけて食べるのぢやが、豆腐ができるのを待っていて、水へ入れずにすぐ皿にとり、暖かいうちにすぐたべるのじゃ」
次は子爵、小笠原長生氏の話。
「あひ鴨は醤油も砂糖もすべてほんのぼっちりにしてそれへ酒を落し薄いつゆにして、そこへ鴨だけを入れてよく煮てから一晩ぐらいそのままにしてつめたくなったところで食べると結構だ。熱い鍋は本當の味が出ないものである。」
そして男爵夫人、大倉久美子夫人の話。
「四谷「丸梅」の料理、これはおいしいと思います。つけ味をなるべく避けて、あっさりとした風味を出して行く手際は上手なものです。東京でも大きな料理屋は、とかくつくり過ぎる嫌いのところが多くていけませんし、関西へ行っては大体につけ味があまりくど過ぎて、私にはどうも好きになれません。」
冷たかったり、調味料もわずかだったり、今から見れば「引き算の味」と思えるような、過剰さを避けるような傾向が全体にある。議員、榊田清兵衛氏の話にはこうある。
「江戸の料理といふものは今ではなかなか味はへない。……自然のものその物の味を出して、すべて淡泊にやって行くという江戸料理よりは調味料をうまく使って食はせるといふやり方が多くなっている。」
このような語りを聞くと、江戸、東京の味覚はもともと淡泊なもので、経済的な要因は別としても、上方料理や中華、洋食などの影響で、食がだんだんと過剰になっていったのかもしれない。
読み進むうち、いまの食卓の過剰さはあまりに行き過ぎているような気がしてくる。本の中で、下手に気取ってばかりいる派手な料理を「大名好み」と遠ざけているが、現代もまさに「大名好み」ばかりが跋扈していて、生地のままの生粋の味わいというようなものは、故郷よりもさらに遠きにありて思うもの、になってしまったかもしれない。
もっとも、豆腐は金物で切るのは厳禁、木のしゃもじできらなくてはいけなかったり、刺身も同じく金味がつかないために、刺身包丁は前日に砥いで、一日清水へつけておく。天ぷらにおいては、海老なら海老だけ、食材ごとに鍋と油をかえてかからなくてはならない、といったような話も出てくると恐れ入るが、かつての文人墨客学者などには、ちょっと舌の上ですぐにそういった違いを味わい分ける人が多かったともある。それだけ、味覚を感知する舌の感覚が繊細だったのだろう。
いまの飽食の時代に、味覚の極楽に辿り着くには、美味いものを探すといった行為よりも、まず自分の舌を鍛えるため、「食の引き算」から始める必要があるのかもしれない。
「天ぷら名人譚」「「貝ふろ」の風情」「お茶に落雁」「真の味は骨に」「梅干の禅味境」などなど、まだ紹介したい語りが山とあるほど、本書の第一の魅力は登場する人物たちの味覚極楽の語りにあるのは確かだが、もうひとつの大きな魅力に、各篇のあとに付された著者の随筆がある。この本の初版は昭和32年、最初の単行本が貴重視されながらも入手困難で、ついに昭和29年より関西の食味雑誌「あまカラ」に再録されたものの単行本である。再録には各篇のあとに著者の30年後の回想や補遺が続いて付けられた。これがまた読ませるもので、あとがきにあるように「それが談話者達の面目を躍如とさせ、眞に恵まれた時代の食道樂の何であるかを如實に示すことになった。」。
本書の登場人物たちはもちろん、いずれも味覚極楽を知る人物であるが、さらにもうひとり、聞き手である子母澤寛その人もまた、味覚極楽を深く知る人なのである。それだけにその言葉は厳しく、30年後の振り返りの文章とはいえ、歯に衣着せぬ運びには、著者の正直さとともに痛快でありながらも、読んでいてハラハラするほどだ。
たとえば、「いささか余計なおしゃべり」と言いながら、こんなふうに綴っている。
「ある小さな銀座の洋食屋でも一軒こんなのがある。大したこともないのだが、誰かが吹聴して東京一のようなことを言い出したので、当人もその気になっているらしく、私はここをあまり買っていない。
……「あの家はどうか」ときかえたから「まず御家庭料理、お惣菜屋の類でしょう」といったら、その人も「わが意を得たり」といって笑っていられた。」
語り手を回想しながらは、こう書く。
「よく「何にか食べに生きましょう」と誘う。御馳走になるのはいいが、こっちは迷惑だったことが多い。交際しているうちに永見さんは妙にこう著作家扱いをされたがる人だなということが次第にわかって来た。世に「旦那文士」というのがある。」ろくにものも書きもしないで、……旅行をして宿屋へ泊ると宿帳に職業を「小説家」などとやっつける」
またもうひとつ。
「彼女(語り手)よほど気に入っていたか、退社時間を見計ってわざわざ新聞社へやって来て二、三度も誘われたが、いつも断って行かなかった。その後1人で行って見たら、その時はあなごは取立ててほめるほどの物ではなく、むしろいかがなかなかうまかったと覚えている。だが料理場は不潔だった。」
まず著者は、対手が勧める店に足を運ぶ。これは聞かれる方としては、生半可な事は言えなくなるので怖いが、記者としては、さすが聞き書きの名手と思わせる模範的な姿勢である。また文章を読むと辛辣なようにも思えるが、そこに相手を落とし込むような嫌らしさはなく、下手に出て変に褒めたりせずそこに嘘はない、自分の思うまま感じるままに書き記す姿は、むしろ潔く、清々しくもある。
「そばの味落つ」という回で、蓮玉庵という店の蕎麦について、「そばそのものの味と下地の味とが、どうもぴったりと来ない」という語りがある、それを受けて「蕎麦が何よりの大好物」という著者はすぐに足を運び、「それからずいぶん長い間通ったが、いつ行っても行くたびに先生の言葉を思い出して感心した。しかし考えてみればこれが蓮玉庵というものの独自の「味」だったかも知れない。」と書いているが、本書の聞き書きとそれに続く著者の随筆も、この蕎麦のそのものの味と下地の味のように、ぴったりとせずとも、それこそが独特の魅力になっているように思える。
ひと息ついて、店の天井を見やると、田舎の古民家でたまに見る昔ながらのむき出しの電気配線に豆電球が灯っている。その灯りの下には、華やかな彩色の動物の張子人形がぎっしりと並べられていて、ひとつひとつその顔は違うが、どれも福がありそうな形振りである。今日の一冊も、さまざまな達人たちの語りに、「読福」というような味わいが十二分に染み込んでいた。枯淡なものから、珍しいもの、少し濃厚なものまで味わいはそれぞれでありながら、随筆部分の爽快感もあってか、舌にベタつくような後味はない。何度も再訪したくなる店のような魅力が、この本にはある。聞き書きの時からは90年以上、著者の振り返りからも60年以上が経過した今日、ここに書かれた味は、まさに極楽浄土のように現世ではまず相まみえることは難しくなってしまっているだろう。しかし極楽を夢見ることが、人生を清らかにすることがあるように、本書に耳を傾けることで、少なからずいまの味が浄められるように思える。
店の扉を開け、擦りガラスの外側に出ると、あっという間に都会の雑踏に飲み込まれる。今日の喫茶での読書体験そのものが、垣間見た極楽浄土だったようで、後ろ髪をひかれながら、過去は振り返らず、時を前に進め店を後にする。
おしまい。
文:川上洋平 写真:佐伯慎亮