古書と喫茶。
新宿の片隅から|古書と喫茶⑨

新宿の片隅から|古書と喫茶⑨

東京都新宿区。新旧が織り混ざった街には、昭和から続く歓楽街の匂いがいまも漂い、都庁を擁した屹立するビル群からはビジネスの風が吹いている。その中間に位置する「思い出横丁」の入口に佇む「但馬屋珈琲店」でサバランから始まる喫茶の刻。

戦後から続く横丁で一線を画す表構え。

東京、新宿駅。迷路のような地下街を人混み縫って東口から外に出ると、アルタを中心に賑わいのある都会の風景が広がる。歩道と車道を遮る柵の前には、多くの若者たちが待ち合わせをして、活気に溢れている。
歩道に沿って少し北へ向かうと、右手に広がる人で満ちた景色とは反対側に、東と西を最短で通す近道がある。数年前までここは、乗降客数日本一の駅には相応しくない様相のままだった。いまではすっかり綺麗になったものの、抜け穴のような地下道は残存し続けている。

コーヒー

私はいま香川県に住んでいるが、生まれと育ちは新宿駅を終点とする沿線の街だった。おそらく沿線沿いの多くの子どもがそうであったように、私にとって新宿駅は、都会のイメージそのものだった。昔と比べれば新たなビルが幾つも立ち、街並みは激しく変わっているものの、かつての面影はまだそこここに残っているように思う。
西口、東口、南口と出口が変われば、街の表情が一変する雑多感もいまだ健在で、いつまで経っても全体としては洗練されきらない。メイン通りから生えた細道や、犇めくビルの間隙に入り込めば、いまなお、数十年は時が止まっているかのような空間に出会うことができる。洗練という言葉とともに、一掃されてしまう街の個性や独特な商店、小径の味わい、そういったものを受け入れる懐の深さが、大都会ならではの包容力によって、この街にはまだ残っている。

東と西の境界となる地下通路を通り抜けて西側に出ると、暗いところから出てきたことで感じる陽射しの眩しさと、狭い小径の東口の景色とのギャップに、どこかまったく違う場所にワープしてきたような気分になる。明るさに慣れた目の前には、昭和の面影をいまだ残す横丁が広がっていて、その入口に、これまたさらに周りの店とは一線を画す、オーラと品格を漂わせた店が鎮座している。

カンバン

「但馬屋珈琲店」。渋みのある木の一枚板に、緑青色に塗られた店名が浮かび上がる。木造づくりの外観に、瓦屋根の意匠、広めの窓にはアンティーク調のデザインが施された大きな擦りガラスが嵌められている。客に媚びるような派手な外観はびこる新宿の街中で、個性的な筋を通したその表構え、粋人であれば到底見過ごすことはできない。

外観

擦りガラス一枚を隔てた別世界。

さっそく扉を開けて中に入ると、期待通り、時をかけた研鑽が感じられる良い雰囲気の空間が広がっている。珈琲の湯気が染み込んだような壁に、木製の柱や什器の配された室内。暗めの照明ながら、擦りガラスを通した外光によって店内は明るく、ガラス窓上部の欄間のようなスリットから漏れた日差しが店の一部を照らし、インテリアのアクセントになっている。
もともと白かったものが時を経て黒ずんでしまっている壁面も、全体に行き渡る清潔感からか、古びた感じはまったくない。一歩店の中に入ってしまえば、外の喧騒は全く気にならず、擦りガラス一枚隔てた外に広がる街の賑わいが嘘のように思える。
ふと横のテーブル席を見れば、欧州からの旅行客と思われる多国籍の方々が席を囲んで愉しんでいる。古民家のような店のサイズに、上背のある旅人たちはアンバランスでありながら、そこには不思議な均衡が保たれている。差別という概念自体に無頓着だった時代の、憧れも含んだ「異人さん」の響きさえ感じられ微笑ましく、もはや昭和を越えて、大正、明治の時代まで遡ってしまったかのような気分になる。

店内

創業50年以上の哲学を感じる風景

奥の席に座り、店内を見渡す。それぞれにデザインの異なった蝶のように舞うペンダントライト、その下には年季の入った円熟味ある木製のL字ロングテーブル。テーブルを隔てた向こう側には、アイロンがけされた白いワイシャツに黒のエプロンをきりりと締めた、短髪のスタッフの姿がさわやかに際立つ。ひとりがカップや皿をすばやく丁寧に洗い、もうひとりは、美しいコーヒーカップにネルドリップで熱い湯を注いでいる。お店の方に聞けば、店内のコーヒーカップにひとつとして同じものはなく、対応した店の方がお客のイメージを判断して選んでいるという。昔から続く店主と客の無言のやりとり、しかしそこに堅苦しい印象はない。自分の一杯を淹れてくれた方がどんなイメージでカップを選んでくれたのか、想像を膨らませるのも楽しい。

ランプ
カップ

ここ「但馬屋珈琲店」は、もとは純喫茶として昭和39年に創業し、昭和62年に現在の二代目オーナーが自家焙煎の店としてリニューアルをした。
入口を入って左側には、使い込まれた黒漆のような鈍い輝きをもつ階段があり、この急な階段を上がると、そこには店を象徴するかのような立派な焙煎機がある。特別に改良された直火式の焙煎機とのことで、下よりも強く漂う珈琲の香りが、焙煎機の放つオーラのように感じられる。2階スペースも正午からは利用することが可能で、目の前の一杯が煎られた焙煎機を横にしながら、午後のひとときを過ごすのもまた一興だ。

階段
店内

創業から55年以上続くということを聞いても、別段驚かないほどその歴史と伝統は店内のそこかしこに感じられる。什器やインテリアから、ドリップされるネルの顔つきまで、一朝一夕ではたどり着けない風格がある。
しかしその一方で、長年続く喫茶店には珍しく、店内には若いスタッフの姿が多く見られる。店を形づくる幾つものバトンが、世代を継承されているのは特筆すべき点だろう。昭和の時代から時を積み重ね、残すべきところは残しつつも、変えるべきところは時代に合わせて変化していくという、店の考えや哲学が、無言ながらも店内の風景を通して語りかけてくるようだ。

「思い出横丁」を象徴するかのようなケーキセット。

メニュー

さて、落ち着いてメニューを開くと、コーヒーの種類はもちろん、コーヒーフロートや、カフェショコラといった冷たい飲み物から、コーヒーゼリー、コーヒーぜんざいといったスイーツまで、乙女心をくすぐるメニューも多彩に載っていて、ここでも時代に適応している。
コーヒーフロートが「こうひいふろーと」とひらがな表記されるその響きに、耳元で囁かれるような誘惑を感じながらも、まずは珈琲は頼まねばと、内なる乙女心を抑えて、珈琲とケーキのセットに決める。ケーキも4種あり、ショートケーキ、モンブラン、チョコレートケーキといった喫茶店ケーキの王道御三家とも言える並びも魅力的ながら、店と縁が深そうな一品「横丁サバラン」を注文する。

横丁サバラン

店のメニュー解説にはこうある。

「軽いパン生地に自家製の珈琲蒸留酒やラム酒等を淹れたシロップに漬けてあります。但馬屋珈琲店・本店のある「思い出横丁」をイメージして作りました。」

「但馬屋珈琲店」がその一角を占める「思い出横丁」は、戦後の闇市とともに開かれ、昭和の味わい残る小規模の居酒屋がひしめく。いまも日が暮れてから人が集まりはじめ、深夜まで人が絶えない。そんな横丁をイメージしてつくられたサバランは、円筒形にツヤのあるきのこ傘をかぶったような形状で、生地の色合いがエメラルドグリーンのプレートに美しく映える。口にすると、生地にたっぷり染み込んだシロップがじわりと溢れ、甘美な味わいが口に広がる。横に添えられた黒い液体は何だろう、と店の方に聞くと、解説にあった自家製の珈琲蒸留酒とのこと。これを数滴垂らせば、大人の味わいが加わり、さらに複雑なものになる。

このサバランと同じく「思い出横丁」にもまた、その名の通りさまざまな人々の思いが染み込んでいる。仕事を終えた人々、酒好きの常連たちに海外からの旅行客まで、多種多様な人々を受け入れる、この横丁の懐は深い。そして今日もそれぞれの感情が酒とともに洗い流され、横丁の風景に重なっていく。そう思うと、甘いはずのサバランの味わいもどこか哀愁が漂い、珈琲を口にした初めは、苦味を強めに感じる。しかし飲み進めて味に慣れてくると、すっきりとした後味が小気味よく、あとには優しい印象だけが残る。「時過ぎれば、何事もよき思い出」と、語りかけられるかのような一杯とともに、サバランと別れ、今日の一冊を手に取る。

コーヒー

――つづく。

店舗情報店舗情報

但馬屋珈琲店本店
  • 【住所】東京都新宿区西新宿1‐2‐6
  • 【電話番号】03‐3342‐0881
  • 【営業時間】10:00~22:00、金・土・祝は〜23:00
  • 【定休日】1月1日
  • 【アクセス】都営大江戸線「新宿西口駅」より2分、JR・東京メトロ「新宿駅」より3分

文:川上洋平 写真:佐伯慎亮

川上 洋平

川上 洋平 (ブックセレクター)

1980年、東京生まれ世田谷育ち。2015年から香川県高松市に住みつつ、東京と行き来しながらの二拠点生活。「book pick orchestra」代表。選書、本の企画から、ひとりひとり話を聞いて本を選び、お酒とともに読書を愉しんでもらう「SAKE TO BOOKS」など、さまざまな場所で人と本が出会う場所や時間をつくっている。