煮ても焼いても酢〆にしてもうまいさば。馴染み深い日常的な大衆魚であるものの、「㐂寿司」に登場するさばは、ひと味もふた味も違う。美しさと味のよさを兼ね備え、これから寒さが増していくほどに、旨味もさらに増していく。
寒ぶり、寒さば、寒ひらめ――。
「㐂寿司」の暖簾を北風が揺らす季節になると、いくつかの定番の鮨種に、わざわざ「寒」の文字が添えられて呼ばれるようになる。魚に脂が乗ってグンと旨くなる、冬の到来だ。なかでも「寒さば」は、マグロ、かじきと並ぶ冬の「㐂寿司」の代名詞だ。
四代目の油井一浩さんは言う。
「豊洲で仕入れるのは1匹1kg程度の真さばですね。あまりにも大きいと握ったときにやぼったくなるので、これくらいが丁度いいんです。さばは全国の港で揚がります。西では福井の若狭などが有名ですが、店で使うのは青森や北海道など北の魚が多いです。同じ肉厚の魚でも身の張った硬い魚よりも、ぽってりとしていて柔らかい魚をうちでは使うことが多いです」
さばを仕入れるのは豊洲市場の「虎勇」という仲卸で、「㐂寿司」ではかつおの仕入れ先でもある。店主の中村文隆さんは、河岸が日本橋にあった頃からの「㐂寿司」の呼び名、「銀座さん」と一浩さんに呼びかけながらこう話す。
「今日の魚も青森の魚です。これで1.1kg。銀座さんの好みはわかっていますから、競りの段階で良さそうなものだけを箱の中から選りすぐっておくのですが、ここ数年は品物の数が減っていて、出ない日もあるんです。今日出たのは数ある中の2本。大衆魚といわれていたさばも、今では高級魚ですよ」
見せてもらったさばは頭が小さく、胴体がぷっくりとしていて、いかにも旨そうだ。
店に帰ると、さばの仕込みが始まる。
3枚におろした後に「塩」と「酢」で〆るのだが、〆る時間は魚の大きさ、脂の乗り具合、身の張り、硬さなどを考慮して調整する。
塩は魚体が見えなくなるほど、たっぷりの塩を使う。脱水作用で魚の余分な水分と一緒に、さば特有のクセと雑味を取り除くためだ。
塩をあてる時間の目安は2時間。身の具合で1時間30分にすることもある。
その後に塩抜きをするのだが、身が柔らかいため流水ではなくボウルにためた水で塩を流し、酢に漬け込む。使う酢は赤酢と白酢に醤油を加えたもので、漬け込む時間はおよそ1時間だ。
「酢に漬けると魚の表面が白っぽくなります。酢の浸かり加減で中は生っぽく浅漬けで仕上げることもできますし、しっかりと身の芯の色が変わるまで漬け込む店もあります。うちはお昼に酢につけた魚を夜使い始めます。一番旨いのは味が馴染んだ翌日です。だいたい、2日で使い切ってしまいます。もちろん、つまみでお出しすることもできますが、やはり、握りで召し上がる方が多いですね」
「㐂寿司」では、さばはそぎ切りではなく、分厚く切りつけて鞍掛けで握る。漆塗りの黒のつけ台に映える、その美しさといったらない。
生姜とあさつきをかませて握ってあり、酢〆のさばの旨さを見事に引き出している。脂の乗り具合も申し分ない。おかわりを所望する人も多いという。
握り以外に常連しか知らない裏メニューもある。それが、さばとガリ、それに白胡麻とわさびを海苔で巻いた海苔巻き“さば巻”だ。
「そもそも、〆たさばとガリを海苔巻きにしたのは、先代のオヤジで、仕事終わりに一杯やる時のアテだったんです。使うのはお客様には出せない尻尾に近い部分。ここは腹よりも身が薄いので、酢が余計に入っているのです。それを、包丁で、ガリと一緒にトントンと軽く叩いて、巻物にするんです。ガリのさっぱりとした味が、さばの脂と相まって、やみつきになります」
このさば巻を目当てにやってくる常連もいるという。白胡麻の食感と風味もアクセントになり、好みにより大葉を一緒に巻くこともある。お酒にもお茶にも合う、隠れた名品である。
「㐂寿司」ではさばが品書きに揚がるのは2月いっぱい。まさに底冷えの「寒」の時期だ。脂の乗った肉厚のさばの舌に差し込むような旨さは、寒さばならではの味わいなのである。
文:中原一歩 写真:岡本寿