狭山茶の主産地である埼玉県は入間市。この地で、昭和の初期から続くお茶屋の「西沢園」。四代目の西澤陽介さんには、三つの顔がある。お茶農家、お茶屋、そして昔ながらの“手もみ”でお茶をつくる茶師。今回は、三つ目の顔「茶師」についてのお話。
西澤さんが、第三のユニフォームである「入間市手揉狭山茶保存会」の白衣をまとうのは、毎年5月の新茶の摘み取りの日に行う“手もみ”作業のときだ。
当日の朝に摘み取って蒸した茶葉を、機械ではなく、手でもむことで茶葉の形状(針状)にしていく昔ながらの製茶方法で、そうしてつくられたお茶は“手もみ茶”と呼ばれる。
まったくの手作業であるため大変な労力と時間がかかり、しかもわずかな量しかつくることができない貴重な茶葉だ。
そもそも“手もみ”とは、葉っぱの状態の新茶の芽を、手でもんだり擦り合わせたりしながら徐々に針状の茶葉の形状に整えていく作業だ。と同時に、茶葉に含まれる水分を揉みだしてしっかり乾燥させる作業でもある。乾燥をさせて茶葉の水分量をコントロールすることで、保存性を高め、お湯を注いだときに茶葉から満遍なく味が抽出できるようになるのだ。
一旦、手もみ作業に取り掛かると、終えるまでに6時間ほどかかる。おまけに、作業中に風が入ったりして空気が動くと、茶葉の乾燥に大きな影響が出るため、作業部屋はしっかり閉め切られ、エアコンもかけない。だから西澤さんは、5枚持っているという白衣を、途中に一度着替える。合間に着替えを挟まなくてはならないほど、全身から汗が吹くのだ。
しかも、お茶は香りが命。柔軟剤の香りなどはもってのほかだ。白衣の洗濯には気を使うし、下に着るTシャツも、必ず新品を水洗いをして天日干ししたものを身につける。まるで神事のようだ。
「何時間も手でもむし、作業中はずっと中腰なので、手もみの当日までは体調管理に気を使いますね。その辺りは、アスリートみたいな感じかな」と西澤さんは話す。最も大切だという手は、農作業や日常生活で怪我をしないように、特に気を使う。
「一年間育ててきた茶葉をもむ日に、手が使えなかったらすべておしまいですからね」
おいしいお茶とは、こうした日々の小さな積み重ねの果てにある。
手もみ茶は、西澤さんにとって、特に思い入れのある存在だ。というのも、西澤さん、当初は家業を継ぐ気はまったくなかったという。
「本当は保育士になりたかったんです。お茶よりも牛乳が好きな子供だったし(笑)。でも、二十歳になった頃から、長男なのにこのままでいいのかな、と急に思うようになって」
祖父母や両親からも特に家を継いでくれとは言われなかったというが、自分の気持ちに嘘がつけない性格もあり、大学卒業後、静岡県にある国立の農研機構「野菜茶葉研究所」で2年間の研修生活を送る。寮生活を送りながら、お茶栽培の基礎を学んだというが、あるとき、運命の出会いがある。
「野菜茶葉研究所」は、現在、西澤さんも毎年出品している「全国手もみ茶品評会」の審査会場でもある。当時は研修生だった西澤さんたちは、審査用のお茶の片付けを担当していたが、全国から出品される指折りの手もみ茶を飲む機会など早々ない。そのため、研修生たちは、後学のためにこっそりお茶を口にするのだという。そこで飲んだのが、その大会で1等1席(全国1位)を受賞した、とある手もみ茶。飲んだ瞬間のことは、いまも鮮明に覚えている。
「もうこの後に何も口の中に入れたくないと思いました。それくらい衝撃でした。お茶ってこんなにおいしいんだって思った」
家業を継ぐと決めたとき、お茶は徐々に好きになっていけばいいと考えていた西澤さん。しかし、そのひと口を機に、一気にお茶の世界にはまり込んだ。おまけに、その手もみ茶をつくった生産者は、偶然にも入間市のお茶農家。先輩だった。
現在、西澤さんも所属している「入間市手揉狭山茶保存会」は、同品評会で2019年を含め14年連続で手もみ茶の「産地賞」を受賞するなど、同市は手もみ茶の優れた産地でもある。お茶のつくり手として恵まれた環境にいることに、この道を志してから気づいたという。
「もうまったく運がいいとしか言いようがないですよね。自分の地元が、実はそんなにすごいところだったんだって、ようやく知ったんです」
2019年に30歳を迎えた西澤さん。「入間市手揉狭山茶保存会」をはじめ、地元の緑茶業界の中では最若手といってもいい年齢のため、さまざまな世代の先輩たちに可愛がられ、教えを受けているというが、その佇まいはあくまでも謙虚だ。
「僕よりもすごく努力している先輩が、たとえば70歳の方でもザラにいるんです。まずはその努力の量から見習っていかないと」
お茶づくりは、ほかの農作物と同様、その年の天候などに左右され、これまでのデータが必ずしも役に立たない面も多い。
「でも、正解がないことが、お茶づくりのいちばん面白いところ。さっき話したことも、もしかしたら来年はまったく逆の意見に変わってるかもしれない(笑)。いまはとにかく、お茶づくりがもっとうまくなりたい。その先に、自分が目指すお茶の味が見えてきたらいいなと思ってます」
毎年10月。品評会用に出品した茶葉が戻ってくると、いよいよ、その年の手もみ茶の販売が始まる。「いつか1等がとれたら」。そう話す西澤さんの今年の手もみ茶は、どんな味わいがするだろう。
理想の“青いお茶”づくりは、まだまだ始まったばかりだ。
文:白井いち恵 写真:米谷享