dancyu webオリジナルの清酒「d酒(ざけ)」を造るための「熊本酵母」を引き取りに、熊本へ飛んだ。熊本酵母は、培養施設のない酒蔵でもすぐに使える「活性酵母」の状態で瓶に詰めて託された。責任重大。これを安全に運ばなければ、d酒は造れないのだから……!
熊本県酒造研究所から託された大事な「熊本酵母」を抱え、熊本駅へと向かう。
ここで、翌日からまた別の出張に発つ書き手の藤田千恵子さんとも、博多に住むカメラマンの比田勝大直さんともお別れである。
熊本県酒造研究所・製造部長の森川智(さとる)さんが託してくれた活性酵母とは、「培地」という液体に、すぐにでも活動できる生きた酵母を入れたもの。瓶に詰められてはいるが、呼吸ができるよう栓はされておらず、スポンジ状の「綿栓」がはめられているだけである。瓶を傾けたら、たやすくこぼれてしまう。だから飛行機に持ち込む手荷物としてはかなり不安だし、それ以前に保安検査で止められてしまうだろう。
ひとり、陸路で東京を目指すのである。
新幹線で、熊本駅から新大阪駅まで3時間13分。
新大阪駅から東京駅まで2時間30分。
そして東京駅から立ち寄らなければいけない用事が1件あり、熊本駅から自宅まではトータル約8時間かけての帰京となる。
自分の身ひとつなら、たとえ時間がかかってもなんてことはない。最大のミッションは、今年の「d酒(ざけ)」を造るための酵母を安全に運び届けることだ。
出発を前に「不安」という2文字が顔いっぱいに書かれた私に、森川さんはこんな注意点を教えてくれた。
「揺らさない。倒さない。温めない。揺らすとこの液体が泡立ってしまうんですよ。その泡が綿栓に触れると、栓が雑菌の温床になってしまってガスが溜まり、栓が抜けてしまうことがあるんです。倒すのはもってのほか。こぼれ出てしまいます。あと、液体の温度が上がりすぎても酵母が死んでしまいます」
気温は約30度という暑さ。
ますます、眉がハの字になる。
森川さんは「鉢植えの花を運ぶような感じで!」と、カラカラと笑うのだけど、瓶に貼られた紙にはこう書いてある。
「凍らせると酵母が死にます」
「瓶はまっすぐにして絶対倒さないこと」
……冷やし過ぎてもだめなのか。
「酵母が死にます」「絶対倒さない」の文字が、ずしりと胸にのしかかる。
冗談じゃなくて、絶対に「走らない(揺らさない)、転ばない(倒さない)、放置しない(温めない)」ことを誓うのだった。
新幹線ではトイレに行く時も酵母を抱えていく。
席に置いたままで、急停車して倒れでもしたら?誰かに持ち去られたら?なんて心配がよぎってしまう。
何時間も車窓の景色を眺めている間、なんとなしに頭に流れていたのは「あふれる熱い涙」だった。忌野清志郎が夜泣きするわが子のことを歌った曲といわれているようだが、いま手元にあるのは、お酒のベイビーにもなるずっと以前の酵母。ただ思うのは、「丈夫に育ってくれ~」という願い。それが本当にお酒になって口にできた時、「あふれる熱い涙」を流せることを夢見るのだった。
酵母はひとまず東京へ運んだならば、新潟県佐渡島の蔵元へ運ばなければいけない。
スケジュールの関係で今回は直接佐渡へ向かえないため、その間、保管しておかなければいけない。……拙宅の冷蔵庫で。
これも、ひどく不安だった。
納豆はだめに決まっているでしょう?ヨーグルトも、チーズも、味噌も、こんかいわしも、どぶろくも(気づけば発酵モノばかりじゃないか)。ああ、飲みかけのワインは大丈夫でしょうか?
食材はすべて撤去し、冷蔵庫内を徹底的に除菌しなくてはいけないのではないか。せっかく運んだ熊本酵母が、ここでどうにかなってしまったら元も子もない。
この点に関しても森川さんは教えてくれた。
「はは。その必要はないですよ。保存は家庭用冷蔵庫で構いません。こちらで梱包した箱に入れたままなら他の食品が入っていても構わないと思います」
かくして、熊本酵母と私は無事に東京駅へ到着し、家へ安着。
ワイン2本分だけを減らしたわが家の冷蔵庫へと箱ごと収め、佐渡で待つ杜氏へとパスする2日後まで、しばしお休みしてもらうのだった。
――つづく。
文:沼由美子 写真:比田勝大直/沼由美子