たっぷりの大根おろしをのせた鮪の赤身漬けに、子持ち鮎の甘酢漬け。ホタテの煮凝りに、皮までうまいサーモンハラスの燻製焼き。もうお酒が止まりません。けれども、品書きは目移りするほど豊富だし、お酒も多彩。どんなに勢いつけたって、一夜でこの店を知り尽くすことなどできないのです。
つまみの2品目は、焼き子持ち鮎 甘酢漬け。9月の下旬にさしかかるこの時期、鮎は子持ちがうまい。焼きびたしをつまみながら日本酒を1杯やりたいと、ちょうど思っていたところだった。
この、甘酢の具合が、また、良いのである。ほんのり甘く、それでいて甘ったるくはない。鮎の香ばしさを損なうことなく、酒にもよく合う。絶妙だ。
「ぬる燗」の店主、近藤さん謙次さん、さすがだなと認識を新たにする。
2杯目の酒は、三重県四日市の酒“天遊琳”にしみよう。私は初めての酒だが、米っぽさとすっきり感の両方がある。これも冷やでもらったが、たいへんうまい。いつものとおり、絵描きの八っつぁんと諸般取り仕切りのお由美さんとの3人飲みですから、酒がなくなるのは、あっという間だ。
追加は八っつぁんの希望により、燗酒へ。銘柄は“開運”。特別本醸造を2合もらう。そこへ出てまいります酒肴は、今宵の焼き物の中から、サーモンハラス燻製焼きだ。
燻香が嗅覚を刺激し、合わせてハラスに特有の脂が口の中で甘く溶ける。それから、ほどよい塩。このひと口に、うまさが凝縮されていると実感されて、そこに、やはりほどよい燗をつけた開運がじわりと馴染むのだ。脂を流し、塩を洗い、燻香に、酒の香りがかぶさっていく。
「たまらんな。ハラス……」
思わずつぶやくと、
「ほんと、うまいっすね」
と八っつぁん。
「この、皮が好きなんですよ」
わかりますね。皮は大切。ここを残すとサーモンの旨み半減という気がします。
そこへ加賀蓮根きんぴらが出てきた。これも優しい味付けに仕上げてあって、しゃきしゃき感が生きる絶妙の1品。
「あの、ずっと気になっているもの、頼んでもいいですか」
お由美さん、そう言って頼みましたのは、豚バラ白菜トマトくたくた煮。くたくた煮、であるのだが、白菜のしゃきっとしたところは残り、豚バラの甘みがよくからんでいる。そこにトマトの酸味が加わるので、シンプルだけれど、楽しみの尽きない味わいで、これまた酒が進むのである。
「飯に乗っけて締めに食ってもうまそうだね」
そんな思いつきも口にしつつ、酒を早くもお代わりする。夏の間、瓶囲いをして熟成させた純米ひやおろし。銘柄は、“まんさくの花”。品のいい酒で、するすると入っていくわけだが、これまたお由美さん注文のホタテの煮凝りとの相性がすばらしい。
どうにも、止まらなくなってくる。カウンターの中では、これだけの品をひとりで仕込み、ひとりで調理する近藤さんが、手を休める暇もなく、次々に料理をつくる。ひょんなことから、テレビドラマ「北の国から」の話をし始めた私たちに向かって、「ああ、その話、入りてえ!」
とひと言。俳優さんのこと、当時の若手女優のこと、話の筋やら何やら、こちらもじっくり語りあいたいが、予約もなかなか取れない人気店の店主は、手が放せない。
近藤さんは一見して強面だ。黒のダボシャツが似合うから、とっつきにくい感じを持つ人もいるかもしれない。が、実は心根の優しい人である。いつぞやは、真っ昼間のもつ焼き屋でばったり出くわしたことがあるのだけれど、そのときも、とてもいい笑顔で声をかけてくれたものだ。
酒に話を戻そう。うまい酒肴の数々で、もう酒が止まらなくなった我ら3人は、続きまして愛媛の“川亀”、山廃純米を楽しみ、さらには生酛(きもと)造りの1品、佐賀の“東鶴”と飲み継いだ。
まあ、よく飲むねえ。でも、まだ止まらないのだ。締めには、これも入店当初から気になっていた蟹クリームコロッケを頼み、近藤さん推奨の、“澤屋まつもと 守破離 五百万石”をいただく。これだけ飲んでも、まだまだうまい。この酒も初めて飲んだが、目を開かれる気がする。例によって酔いのために頭がおかしくなりかけているのかもしれないが、食べ尽くせない、飲み尽くせない、という思いばかりが残る。
これこそ、観音裏「ぬる燗」の底力。そんな思いを新たにする一夜となりました。
――東京・浅草「ぬる燗」 了
文:大竹聡 イラスト:信濃八太郎