15歳から板前修業、老舗の料亭で培った味を、日常でさりげなく味わわせてくれる「ふじ芳」。ちゃんとおいしくて、気持ちがよくて、味方になってくれる言葉を持って家に帰れる。焙煎士でチョコレート職人、珈琲店店主でもある蕪木祐介さんは、「いい店って何だろう?」と考える時、この気持ちよさを思い出すのだ。
昭和/ふじ芳 Fujiyoshi
僕/蕪木祐介 “蕪木”(かぶき)
「ふじ芳」の大将、藤田芳男さんの仕事は、夜だけの営業なのに早朝から始まる。
朝は電車を4回ほど乗り継いで、豊洲市場へ。茶屋(買った魚をそれぞれの店に届ける河岸独特のシステム)から届くのが10時半、そこから仕込みだ。
「仕込みが大事なんですね。職人ですから、河岸では二つ並んでいたらつい、いいほうを買っちゃうでしょう?いい魚を一刻でも早く手当てしたいってので、魚の到着が遅いと本当にやんなっちゃう」
魚を待つ間は、だしを引く。料理によって昆布と鰹節、鰹節のみ、昆布でも水出しとお湯出しなどさまざまに引きわけている。
一事が万事、じつに繊細だ。「おばんざい」とした気軽な煮物でも、大根、厚揚げ、筍、じゃがいも、平目の卵などを別々に炊き、皿の上で合わせる仕事。
「だしでも何でも、いかに濁らせずつくるか。私は濁っているのがどうも納得いかなくてね、ですから濁った豚骨スープなんかも腑に落ちない(笑)」
看板のうずら鍋は、鰹だし。肉の味を味わうのに、余計な旨味は邪魔になるということで、昆布は使わない。具材もまたいたってシンプルに、豆腐、白菜、葱、椎茸、春菊のみ。創業時、うずらを主役に具材とだしのバランスを研究した黄金律だ。
そのうずら鍋を完成させるのは、女将さんである。つなぎを使わないうずら肉のタネは、一口大にまとめてから鍋に落とすのも難しく、下手に扱えばたちまちだしが「濁る」。さらにはアクの取り方でも味が変わってしまうから、お客には手をかけさせない。
お客が楽ちんなように、というよりむしろ、味のためである。
「何か違ったものが混ざれば、ほかがどんなによくてもそればかりが記憶に残ります。ですから料理、接客、居心地、すべてにおいて何一つ違ったものがないように。そんなの無理といわれるかもしれませんが、私らはそれを目指さなくちゃならない」
違ったものがなければ、気分よく帰ってもらえる。大事なのは、この余韻である。
大将の信条は「100人に好かれるより、一人に嫌われない店であること」。だからおひとり様もグループも、常連も一見も平等に大事にする。と言っても近しくし過ぎるわけじゃなく、お客との間隔の取り方も間合いの持ち方も、蕪木祐介さんから見ればじつに「粋」なのだそうだ。
「すっと流すところは流し、拾うところは拾い、他愛ない会話にちょうどいい間隔で参加してくれる。だから疎外感など感じずに、ほかの常連客との会話ですらも、それを肴に呑めてしまうほど」
人を気持ちよくさせる間隔や間合いは、蕪木さん自身もまた大切にしていることである。
彼が生業とする珈琲は、曰く、感情より理性に働く。少し立ち止まって自分の感情を咀嚼し、ニュートラルに戻す、調息(ちょうそく)の時間をもたらす飲みもの。
一方、お酒は感情に働く飲みもの。心の解放であり、珈琲とは真逆だ。
それでも、いい店って何だろう?と考えた時、調息でも解放でも、「求めるものを気持ちよく行える店」という意味ならば理想は同じだ。
ちゃんとした仕事、粋な間合い。そういう諸々が重なったいい店には「守られているような感覚」があるという。
「お店を出る間際、蕪木さん、すいませんどうも!って大将が言うんです。大将、何も悪いことしてないんですけど(笑)、あの声や言い方がなんか、気持ちがいい。味方になってくれる言葉ですよね、ああ今日もいい日だったねって」
うずら鍋を食べて、〆のおじやでほくほくに温まったところに、この言葉がのっかって気持ちよく帰る。そのルーティーンの気持ちよさ。
少し日が経つとまた、「大将の声が聞きたいな、『ふじ芳』行きたいな」と思い立つ。回を重ねるごとに、自分と店の関係も味わい深くなっていく。そうして気持ちのいいルーティーンは、大きく広がっていくのである。
――「ふじ芳と蕪木」おしまい。
文:井川直子 写真:キッチンミノル