問屋街やおかず横丁の風情が残る下町、鳥越。駅で言えば浅草橋。3年前、この町に珈琲とチョコレートの店「蕪木」を構えた蕪木祐介さんは、すぐに「呑みたい時に呑めて、ちゃんとおいしい」酒場を探した。見つけたのが、昭和57年創業の「ふじ芳」。定番料理にこそ仕事の違いがわかる、日常を豊かにしてくれる店。
昭和/ふじ芳 Fujiyoshi
僕/蕪木祐介 “蕪木”(かぶき)
3年前の2016年、「蕪木」は鳥越に開店した。駅で言えば浅草橋、東京の東にあって、問屋街やおかず横丁などの風景が残る下町である。
店主の蕪木祐介さんは朝から工房で豆を焙煎し、チョコレートを練る。それから喫茶で珈琲を落とす。20時に閉店して、片づけて20時半。
「ああ、おいしいものを食べて一杯飲(や)りたいな」
そう思いつくのと一緒に、「ふじ芳」がよぎる。同じ町にある、うずら鍋と季節料理の店。彼は、自称「予定を組めない病」。そのためいつも直前に電話を入れて、今からいいですか、で自転車で乗りつけることになる。人気店ではあるが、一回転目のお客が引けてちょうど空く時間帯なら、運良くカウンターに滑り込めることもあると知っている。
「僕は、呑みたいと思った時に呑みたいんです」
この町へ住まいを移したとき、一番に探したのはそれができる店だ。誰かと約束して、待ち合わせして、といった準備運動などなしに、店のスタッフと「じゃあ行くか」と駆け込めるお酒の場。
満席だったらそれはそれでまぁいいや、また来よう。いつでもひょいっと来られるし。そう思えるご近所の行きつけである。
その「ふじ芳」が2018年5月、両国へ移転した。たった一駅隣ながら、彼には少なからずの衝撃だった。築66年の木造家屋や、ほの暗い照明、飴色になったカウンターの風情も好きだったから。
両国の新しい「ふじ芳」は、一転して明るく、白木のL字カウンターが目にも清々しい店である。でも、張りのある大将の声はいつもと同じだった。
「蕪木さん、どうも!」
この声で、ああ「ふじ芳」に来た、と思うのだ。
席に着いて瓶ビール。すると着物に割烹着の女将さんが「まずは一杯」と、流れるような所作でグラスに注いでくれる。仕事の後に、これが沁みる。さあ、これからお酒を楽しもう、という気持ちがやわらかく高まっていくスイッチが押される。
好物の炙り明太子をつまみながら、今日はどんな魚があるのかな、と品書きに目を移す。時季により魚は違えど、大抵は酢〆、唐揚げと定番を頼んでしまう蕪木さんは、いたって普通のメニューが好きな人である。
「特別な料理とか、どこそこ産の何々ですっていうのは、僕、なくていいんです。どこにでもあるメニューだからこそ、ちゃんとおいしいものがわかる。ちゃんと食材を見て、あたりまえの仕事をちゃんとしてつくられるおいしさが」
蕪木さんの「ちゃんと」には、真面目や律儀や正しさといった意味あいと、そういうものへの敬意が込められている。そう言えるお店は案外少ない。だからいろいろな店へ行くよりも、そんな店がいくつかあれば十分に豊かである。彼はそれを「日常の質」と表現した。
蕪木さんは大将の経歴など知らないが、「ちゃんとおいしい」と感じたその味は、料理人歴60年の味である。
大将の藤田芳男さんが修業を始めたのは、中学卒業後の15歳。故郷の新潟県新発田市を出て、新潟市は古町という花街にある料亭「まつ井」に入店した。昭和35年、柳通を芸者がそぞろ歩いていた華やかな時代、数ある料亭の中でも「まつ井」は東京から料理人を呼び寄せ、洗練された料理が評判だったそうだ。
ここで仲居として働いていたのが、現在女将のヨシノさん。二人はともに上京して、熱海の割烹旅館をはじめ、向島や蔵前の料亭で修業を重ねた。昭和39年には池袋「田舎家」の料理長と仲居として店を切り盛りし、新聞にも掲載されて行列のできる人気店になる。
ところが、だ。順風満帆の7年後、大将は「もう一度、人の下で働きたい」と思うのである。
「私は料理をつくることはできますが、どうしてそうなるのか?なぜこうでなければならないのか?といった理由がわからないんですね」
わずか4年の修業期間で料理長になってしまったから。そう言って、一料理人として割烹で10年働き、何一つ忘れ物なく、昭和57年に「ふじ芳」を構えた。
――ふじ芳と蕪木2/2につづく。
文:井川直子 写真:キッチンミノル