料理人として、自分の原点は亀有にある。そう語るのはリストランテ「オステリア スプレンディド」のシェフ、小早川大輔さん。彼が作るのは繊細で華やかなイタリア料理だけど、「グリルさんばん」のほっとするおいしさや、中華料理人の父と巻いた肉まんづくりの楽しさ。同じ料理人として、大切なことは亀有の大先輩たちから教わった。
昭和/グリルさんばん
僕/小早川大輔 “オステリア スプレンディド”
昭和48年、土屋治幸さん、治子さん夫妻は横浜で独立した。店名は、閉店する店から譲ってもらった食器やマッチに「グリルさんばん」と書いてあったから。「ただただ店を持ちたい」一心で、それ以外には贅沢を言わない。
4年目に高速道路の開通で立ち退きとなったときも、渋谷の不動産屋に紹介されたのが、なぜか葛飾区亀有。縁もゆかりも知人もない町だけどすんなり決めている。窓もなければ、重そうな木製のアーチ扉で入りづらいことこの上ない、元スナックの物件だった。
当初、日本語とフランス語、英語も併記したメニューは「気取ってる」やら「高すぎる」と文句を言われ、書いていないのにうどんやお新香を求められる。ありませんと断れば「長持ちしないよ」と不吉な予言。
それでもめげなかったのは、治子さんのほうだ。
「私はお新香も漬けますけど、お金をもらえるお新香はできませんってね。お客さんに合わせるんじゃなくて、“うちはこういう店です”って崩さないほうがいい。うちに合ったお客さんに来てもらったほうが、結局続くと思うの」
治子さんの歯に衣着せぬトーク力と、厨房で黙々と作り続ける治幸さんのコントラスト。夫妻と店と洋食は、やがて町に根づいていく。
「グリルさんばん」歴30年以上の小早川大輔さんは、愛される理由をこう考える。
「ご夫婦のコンビがいい。でも、何よりやっぱりおいしいんです」
彼の好物、チキンカツは「肉汁がじゅわっと出て衣にしみ込み、さらにデミグラスソースと混ざって何とも言えない味と食感になるところがポイント」だそうだ。
このデミソース、一度焼いた牛すじ肉と鶏ガラを香味野菜などと一緒に4~5日煮込み、濾して、新たな肉とガラを投入、途中トマトのピュレホールや水煮ホールも加えながらさらに1週間煮込んだもの。デミだけでなく、ソースはタルタルもベシャメルもマヨネーズも自家製だ。
御年82歳、治幸さんはこの仕事をたったひとりで続けている。
恩師である村上シェフは「料理は愛情」が口癖だった。では、その「愛情」とはなんだろう?治幸さんは「忠実に」と受け取っているそうだ。
もちろんホテルのフランス料理と、街場の洋食ではまるで違う。オニオングラタンスープの玉葱をバターで飴色に炒める作業も一人では手が回らないし、スープに仔牛の骨付き肉といった高級食材を使うわけにもいかない。
けれど、玉葱の甘みとコクを出すという目的ならば、炒める代わりに揚げて工夫する。仔牛でなく牛のひき肉や鶏のガラでも、弱火で数日かけて炊いて旨味を引き出せば十分おいしいスープになり、土屋さんはそれを卵白で丁寧に澄ましている。そういう仕事を、忠実に。
「それでもうちは下町の洋食ですから、味はしっかりさせます」
自家製のコンソメスープにあえて市販のブイヨンも加え、スープを吸わせるパンにはバゲットより甘みのあるロールパンを使い、チーズは濃厚なエダムだ。
小早川さん曰く、このオニオングラタンスープの香りは、たとえるならパリのパン屋の幸福感。店の前を通ったときにバターの香りが漂ってきて「幸せだなぁ」と思うあの感じに似ているそうだ。
注文が入ってから作るため少々待つが、むしろ願ったり。厨房からコンソメの香りがして、それが近づいてくるわくわくを味わえるのだから。で、いざ料理がテーブルに載るとあっという間にぺろりと平らげるのだ。
料理人の幸せは、そういうお皿を受け取ることだと治幸さんは言う。
「完食したきれいなお皿が返ってくると、ついお皿に向かって“ありがとうございます”って言ってしまうんです」
小窓の向こうでそんなことが行われていたとは知るよしもなく、食べっぷりのよかった少年は町を出てイタリアのあちこちに行き、料理人になった。
「だけど僕の原点といえば、亀有。『グリルさんばん』のおいしさ、あとは、父と一度だけ一緒に巻いた肉まんの楽しさも。今の僕があるのは、そういう記憶のおかげです」
料理人とは、おいしくて楽しい幸福を与える仕事。恵比寿でも亀有でも、イタリア料理でも洋食でも、それは不変だ。
――「グリルさんばんとスプレンディド」おしまい。
文:井川直子 写真:鈴木泰介