神奈川県多摩区にあるイタリアンレストラン「IRORI」は、多摩で生まれ育った伊藤兄弟が店を営んでいる。「ほかに飲食店なんてないからこそ、生まれ育った僕たちが店をやる意味があるんです」と兄の雅さんは語る。「IRORI」ができてから生田の雰囲気が少し変わったようだ。
伊藤兄弟はなぜ「IRORI」を「読売ランド前駅」に出店したのか、そしてなぜイタリアンだったのか。もっともシンプルな回答は「地元だから」となる。でも思考の過程は、それほど単純ではなかったようだ。
ふたりが生まれ育った実家は、現在の店舗からほど近くにある。生まれも育ちも川崎市多摩区。自分たちが知り尽くしたエリアに「IRORI」をオープンさせた。
「店を開く前のいわゆるマーケティング調査をするとき、地元って深堀りできるんです。一般の調査データには反映されないような情報も体感で知っているからきめ細かい調査ができました。同級生からは『こんな店が欲しい!』という声が自然に聞こえてきますからね」と弟の優さんが笑う。
飲食店経営は「3年残るのは3割、10年だと1割」と言われるほど難しい。想い入れや思い込みだけでは続けられない。「もちろん不安要素もありました」と兄の雅さんは続ける。
「何しろ、周辺に店がありませんから(笑)。100m先にチェーンの牛丼店があるくらいでベンチマークや参考にできるような店が近所になかったんです。でも何もないということは、潜在ニーズの大きさの裏返しでもある。友人に訊くと『地元に良い店がないから、数駅先まで食事や飲みに行く』という人もいるくらい。ニーズのすくい取り方を間違えなければ繁盛する!という確信めいたものがありました」
潜在ニーズは大きい。だからこそ、利用シーンを念入りに考え抜いた。
入口脇は地元のファミリー層でも居心地よく過ごせるよう、ソファ席にした。日本では、乳幼児を連れて、食事を楽しめる本格的なレストランは少ない。「IRORI」は乳幼児連れでの来店もOK。それどころかスタッフが哺乳瓶でミルクをつくり、温度調整をする光景すら見かける。入口近くなら、子どもが泣き出してしまっても外に連れ出しやすい。受け入れ体制が万全な上、客の逃げ場もあるとなればファミリー客の気持ちも軽くなる。
カウンターは夫婦や友達同士の少人数用。
店名にもつながる”囲炉裏”をイメージして、オープンキッチンを取り囲むようにつくられている。
対面型にしつらえながらパーソナルスペースはとても広い。店員と話したい客、放っておいてほしい客のどちらにも心地いいカウンターを目指したという。
奥行きがありつつ、店員との距離を感じさせないカウンターは、確かに居心地が良い。
弟の優さんが軽やかな身のこなしで調理する姿もよく見える。厨房を覗き込むと、いまはポルケッタを炭火で焼いているようだ。
店の奥に2卓あるハイテーブルとスツールの席は、各卓6~8名でぐるりと回りを囲むことができる。店内でもっともゆとりあるこのスペースは、ちょっとした喧騒さえもBGMにしてしまう。
銅製の巨大なランプシェードは特注品。その光の向こうには店全体が借景となって見え、傍らには薪ストーブが設えられている。夜なんて、もうめちゃくちゃ雰囲気がいい。
「この薪ストーブがすごく優秀なんですよ。冬場に使うと暖房いらずでむしろ暑いくらい。燃料の薪も大家さんが裏に広大な雑木林を持っていて、伐採したヒノキなどの丸太を『適当に持っていっていいよ』とまで言ってくれる。しかも薪割りの機械まで使わせてもらっていて、めちゃくちゃ助かっています。乾燥させる前の生木は炭火焼きに燻香をつけたりもできますから」と、ちょうど炭火焼の話をしているところに、注文していたポルケッタが登場した。
「IRORI」の両看板「炭火焼き」と「自然派ワイン」の中でも看板料理の「ポルケッタ」。炭火焼きの燻香は欠かせない。
5kgの豚バラブロックに塩、胡椒。そのほか数種のハーブやレモンピールを細かくしたペーストを刷り込み、タコ糸で円柱状に成型する。フライパンで焼き目、炭火で香りをつけたら150度のオーブンで4時間かけてじっくりと焼き上げる。常温までゆっくりと戻していきながら肉汁と味を落ち着かせるという。
もう我慢できない!と落ち着き皆無の我々が肉に飛びついたところ、シェフの優さんがさりげなく補足を続けてくれた。
「ポルケッタは提供直前に切りわけ、炭火の香りを乗せて提供します。創業当初からあるメニューですが、細かい火入れの時間やハーブペーストの配合などは、肉の状態次第で変わります。仕上がりのイメージはひとつでも、一度として同じ仕事をしたことがありません。いつも肉と対話をしながら調理しています」
イメージはブレることなく、手法はいつもニュートラル。「IRORI」の伊藤兄弟はそんなスタンスで今日も店に立っている。
――つづく。
文:松浦達也 写真:木村心保