神奈川県川崎市の生田にあるのは炭火焼きと自然派ワインを謡っている「IRORI」。最寄りの読売ランド前駅からは歩いて5分。飲食店が見当らない世田谷通り沿いにポツンと立っている。恵まれた立地には見えないが、店の中からはたくさんの人の笑い声が聞こえてくる。
小田急線の急行の下りに乗り込みガタンゴトン。多摩川を越えたら登戸駅で各駅停車に乗り換えて3つ目、「読売ランド前駅」で下車する。東京を西から抜けた、神奈川県の入り口だ。
たぶん、この駅で降りるのは30年以上ぶり。最後に降り立ったのは、中学か高校の頃、よこしまな気持ちで出かけた近所の女子校の学園祭だった気がする(もちろん成果はなかった)。
一番大きな改札口が自動改札にはなったものの、駅周辺の風景はほとんど変わっていないし、目に入る限りではそう気の利いた店はなさそうに見える(失礼)。
そして飲食店がほとんどない世田谷通り沿いを都心方面に5分ほど歩く。左に見えてきた材木店を越えたところにその店はあった。
炭火焼きと自然派ワインの店「IRORI」である。
この店を教えてくれたのは、編集担当のカワノさんだった。「読売ランド前駅」近くの洋菓子店で修業歴がある彼が「うまい炭火焼の肉とワインを出す店がある」という話を昔の同僚から聞きつけて、僕に教えてくれたのだ。
階段数段を登って、店のドアを開いて驚いた。都心の個人店では考えられないほど広い。ちょっとしたプールくらいある。
カウンターに置かれたメニューには、焼いた牛肉を薄く切ってパルミジャーノを振りかけるタリアータや、唐辛子とトマトを効かせたアラビアータなどが記されている。
そう。「IRORI」という和風の名前なれど、この店ではイタリア料理がメインなのだ。
さて、何から頼もうか……と迷っていると、隣のカワノ君が猛烈にタリアータを食べたそうな顔をしている。望むところだ!
牛肉の相棒となれば、全世界的な定番としてポテトフライも頼みたい。
厨房からジャアアという揚げ音が聞こえてくる。先に目の前にやってきたのは、ポテトフライだった。バターとローズマリーの芳香とじゃがいもの甘い匂いが立ち上る。香ばしく揚げられた皮に歯を立てると、ねっとりとした甘味が舌にまとわりつく。バターのコクと絡み合う、暴力的な旨さだ。
ぼそりと「旨いなあ……」とつぶやくと、カウンターの内側のシュッとしたイケメンがにっこりと微笑んで口を開いた。
「ありがとうございます。芋の甘さを際立たせるため、前日の晩に一度蒸して、翌日まで冷蔵庫で引き締めています。食感がしっとりと引き締まって、落ち着いた甘さになるんです」
受け答えもスマートだ。流暢な説明にこちらの顔もますますほころぶ。
香り付けは、つぶしたニンニクとローズマリー。じゃがいもと一緒にたっぷりのオリーブオイルで揚げているという。
揚げ上がりには、ゲランドの塩を振り、塩味と芳香をまとわせる。さらにもう一段甘さを引き立てるため、バターを落として3分蒸せば、トスカーナを想起させる香りに、とろけるような甘味が合わさったポテトフライの完成だ。
端正な店員さんは、ちょうど焼いているというタリアータのことも説明してくれた。
肉はアンガス牛のトモサンカクを使っているという。まずフライパンで焼き目をつけたら、200度のオーブンでの火入れと常温での休ませを3~4セット繰り返す。
仕上げは炭火の上で、澄ましバターを塗りながら炙り、香りとジューシー感をプラスする。
そうしていよいよ肉を切る瞬間ーー。見よ! この美しいロゼカラーを!
多摩川を渡った先の各駅停車しか止まらない駅に、こんな店があったとは……。
訊けば、カウンター内から心地いい雰囲気を演出するスマートなサービスマンは、ソムリエを務める店長だという。名前は伊藤雅さん。
そして厨房の奥で炭火や五口コンロ、大きなパスタ鍋を自在に操り、鮮やかな料理を振る舞うのがシェフ。名前は伊藤優さん。
読みは、それぞれ雅(まさし)と優(まさる)。そう。ご推察の通り、ふたりは兄弟である。
まだ30代前半の2人が切り盛りする「IRORI」のオープンは2017年の12月。店歴もフレッシュなこの店の料理とワインを楽しみながら、兄弟が「読売ランド駅」で店を構えるまでに至った道のりを訊いてみよう。
――つづく。
文:松浦達也 写真:木村心保