伊藤兄弟が営む「IRORI」の屋号には”人が集まる場所になってほしい”という願いが込められている。ふたりで悩みに悩んで決めた。生まれ故郷で開く店に妥協はしたくない。プレオープン当日まで、グランドメニューは決まっていなかった。
伊藤兄弟が「ふたりで飲食店をやろう」という夢を抱いたとき、屋号はもちろん業態も決まっていなかった。夢が具体化して開店に向けて走り出しても、どんな料理を出すか、決まっていなかったという。
そんな話を聞いて、ちょっぴり驚いた。
独立開業する個人店は、たいていどんな料理を出す店をやるかということは決めている。というより、シェフの料理ありきで店が設計されていくケースがほとんどだからだ。
シェフをつとめる弟の優(まさる)さんはイタリアンレストラン出身、ワインが好きな兄の雅(まさし)さんはソムリエの資格を持っている。となれば、業態は当然イタリアン……となりそうなものだが、伊藤兄弟は自分たちの手持ちの武器に拘泥してはいなかった。
「結果としてイタリアンにしましたけど、それも近隣にイタリアンが少ないからいいかな」と雅さん。
どこかふわっとしているのが、かえって好感が持てる。ふたりにとって大切なのは、コンセプトありきで決め込んだ、作品のような店をつくることではなかった。
「まだ地元にあまりなくて、地域の人に喜んでもらえる、貢献できる業態を考えたらこうなりました。ガチガチにイタリアンと決めて開業するんじゃなく、遊びがあるほうがいいと思ったんです」
雅さんが独立前、最後に手掛けた店舗はベトナムサンドの店で、弟の優さんも開業前には中国・四川の「麻辣湯(マーラータン)」を日本で商品化するためのカスタマイズや、海外のリゾート地向けに「原宿チーズドッグ」のプロデュースをするなど幅広い”料理”を手掛けていた。伊藤兄弟は無数の引き出しを持っていた。
現在の屋号にも「イタリアン」とは書かれていない。あるのは屋号と看板メニューを象徴する「~炭火焼きと自然派ワイン~」という表記のみ。
トラットリア……という屋号も候補には上がったが、周囲にレストランのない地域に出店するにはどこか借り物感が漂ってしまう。
ふたりは「どういう場所なのか、店名できちんと伝えたかった」のだ。
共通するイメージは、コの字型カウンターがあって、炭火があって、薪ストーブがある。老若男女、地域の人が集まっては温かい料理を囲んでいる感じ――。ぼうっとした像を語るうちに「SUMI」などの屋号候補が浮かんでは消えた。
「『IRORI』という屋号が候補に上がってからは、早かったですね。『人が集まる場所』というイメージが連想でき、僕らのやりたいことが説明できる。そして短くて覚えやすい」
イメージはコンセプトへと昇華された。
柱となるのは「炭火焼きと自然派ワイン」。料理やワインはイタリアンをベースに進めていくことにもなった。
もっとも店づくりはそこからが難関だ。設計、内装工事、調理機器や備品の発注など、開業前の仕事は飲食店の”日常”とはかけ離れている。同時にワインリストも含めた全メニューの考案も進めなければならない。
結局、厨房機器が100%使えるようになったのはプレオープン前日、グランドメニューが決まったのはなんとプレオープン当日だった。
「プレオープン用のメニューは試作ゼロのぶっつけ本番でした。しかも冬だから野菜が根菜ばかり(笑)。ただイタリアはサルーミ――生ハムやサラミが充実しているから、ワインに合わせてサッと出せる前菜のはやっぱりいいな、と実感できました」
そう言って、いまも毎日刃を研ぐというスライサーで、優さんはプロシュートをスッスッと切っていく。ニコニコと笑みを振りまきながら「一日に3ケタは切るから、切れ味が悪いとストレスなんですよ」とさまざまな色味の深さの違う肉を切り出していく。
優さんは、スライサーのカット厚を加工肉の種類によって微調整をしている。
舌に乗せれば旨味があふれるプロシュートは0.6mm、食感の柔らかいモルタデッラはわずかに厚い0.7mm、噛み込むほどに旨味が膨らむサラミも0.7mmなど、種類によって微調整している。わずかな違いで変化する食感がなんとも楽しい。
前菜の「イタリアハム盛り合わせ」は、先に挙げた3種類が定番。そのほか、豚の首肉からつくる肉味濃厚なコッパや、豚足や耳などを煮詰めて冷やし固めたトスカーナ州のソプレッサータ、クリスマスの頃には、特別にエミリア・ロマーニャの極上もも肉を使ったクラテッロを仕入れることもあるという。
うすくスライスされた加工肉をフォークでくるっと巻いて、それぞれの加工肉を口に運ぶ。
きりりとした塩味と強い旨味が印象的なものもあれば、口当たりの柔らかな1枚もある。そして噛み込むほど、どこまでも深い味わいで訴えかけてくるもの――。
さらに前菜には「自家製レバーペースト」や「燻製鴨とマッシュルームのサラダ」、「ゴルゴンゾーラのムース」「白桃と水牛モッツァレラのカプレーゼ」のほかにも目移りするほど種類がある。
誘惑に負け、欲望のままに注文してしまえば、前菜だけでお腹が膨れてしまいそうになる。だがメイン料理のため、お腹にはゆとりが必要だ。「IRORI」の前菜は、実に楽しく、そして悩ましい。
――つづく。
文:松浦達也 写真:木村心保