ベッドタウンにあるイタリアンレストラン「IRORI」には、都心の店とは違うものが求められる。おいしさはもちろん、圧倒的な提供スピードや幼児への対応。相手の気持ちを満たして、新しいことを提案する。そうやって「IRORI」は地域と繋がってきた。
開店後の「IRORI」は順風満帆だった。地域にネットワークを持つ物件の大家が、プレオープンの時点から知人を次々に連れてきてくれた。人が人を呼び、「IRORI」は着実に地域に根づいていった。
「おかげさまで、本当に幅広い層のお客さまにいらしていただいています。敢えて中心層となると50代くらいでしょうか」と伊藤兄弟の兄、雅(まさし)さんは教えてくれた。
望外の集客もあった。当初はあまり関係ないだろうと考えていた「よみうりランド」帰りの客もいた。夏場はナイトプールの帰り、10月から5月まではイルミネーションが飾られ、帰りがけと思しき20代のカップルが来店することもあるという。
伊藤兄弟、オープン前に「よみうりランド」の入場者数まで調べていたが、駅とテーマパークを結ぶバスの路線からは外れているし、閉園後に店に来てくれるかはわからないし、考えても仕方ないと思っていたという。机上で綿密な計画を立てても、飲食店営業は文字通りの水物。すべてが計算通りにいくわけもない。
ある程度予想はしていたものの、当初は地域の外食習慣にも戸惑った。
都内のイタリアンレストランなら、最初に注文したメインの肉や魚――”セコンド”の提供に数十分かかるのは当たり前だと客も考えているが、このあたりでは20分程度でしびれを切らした客から注文が通っているか確認が入る。パスタも前菜の次皿の”プリモ”としてではなく、メインを食べた後の〆として注文する客もいれば、単品で注文するのが当然だと考えている客もいる。
「イタリアでも食べたい皿の組み立てや、順番は客の気分で変わるので、あまり気にしていません。ファミレスみたいなスピード感が求められることもありますが、なるべく要望には応えていきたいですね。まだ若いんで(笑)」と、弟の優(まさる)さんがまたも爽やかに微笑む。
「IRORI」定番のアラビアータは、まずソースづくりからはじまる。
オリーブオイルににんにく、鷹の爪を入れて強火にかける。鷹の爪は唐辛子の名産地、カラブリア産。香りが立ったら2種類の自家製トマトソースを加えて、ブロードとゲランドの塩で味を決める。
パスタは“乾燥パスタ発祥の地”と言われる、カンパーニャ州グラニャーノで創業100年を迎える「ダルクオーレ」の乾麺。1.7mmのスパゲッティを軽く沸騰した湯に入れ、表示より30秒早い7分30秒で引き上げ、ソースの湖へとダイブさせる。そこから一気呵成の混ぜで乳化させて、ソースとパスタが一体となった一皿が供される。
目の前でもうもうと湯気を立てる皿にフォークを射し入れる。クルクルッと巻取ったロングパスタを、口の中に放り込む。旨味と甘味がふくよかなトマトの味わいの間隙を縫って、唐辛子の辛味が口内の細胞を突く。ピタリとゆで上げられた麺の食感が心地いい。
1.7mmの麺はアラビアータのほか、モン・サン・ミシェルのムール貝が入ったときにはボンゴレにすることもあるという。
何そのイタリアとフランスの融合!それも食べたい!
そして1.9mmの太麺、スパゲットーニはカチョエペペやフルーツトマトのパスタにするという。そんな話を聞かされては、胃袋がいくつあっても足りないではないか!
「やりたいことはまだまだあるんです」と、ふたりは目を輝かせる。
優さんは本格的なイタリアの食文化を伝えたいという。
「たまに開催している、イタリア式の食事を楽しんでもらうようなイベントも増やしていきたいですね。パスタもロングばかりではなく、手打ちのショートパスタを出したり、イタリアのキアニーナ牛の大きなTボーンを強火の炭火でガリッと焼いたりもしてみたい。肉を数十分かけて焼く間、ほかの皿を楽しみながらメインを待つワクワク感を知っていただきたい」
本稿を書いている僕の実家は読売ランド前駅から数駅のところにある。このあたりにそんな店があったら、実家のほうにちょくちょく立ち寄り、親孝行のひとつもしてしまいそうだ。
雅さんは「隣の生田駅あたりに、終電組も軽く飲んで食べられるような、活気あふれる店をつくりたい」という。
「若い人から大人まで、楽しく飲めるバルみたいなお店がいいですね。都心にはよくありますが、このあたりは終電近くなると店も閉まるし、人もいなくなってみんな仕方なくコンビニに吸い込まれていく。駅前に活気のある店があれば、町が変わるじゃないですか。生まれ育ったこのあたりの飲食店の幅を広げ、地域のポテンシャルを上げていきたいんです」
兄弟そろってこの地に生まれ育ち、東京で研鑽を重ね、そして再びこの地で勝負する。その若々しい気構えに、優しさをベースにした雑多な活気。この郊外の新店は、都心に生える流行りの新店よりも遥かに面白い。
おわり。
文:松浦達也 写真:木村心保