古書と喫茶。
寺山修司がいた時代|古書と喫茶④

寺山修司がいた時代|古書と喫茶④

高松市の中心地から少し離れた住宅街で、唯一無二の存在感を放つ喫茶店「ロゼ」。樹木が聳える店内で寺山修司の著作を読む。過去と現在、現実と空想、日常と非日常が交錯するような錯覚を覚えながら、読書の悦びに浸る。珈琲を傍らにして。

数々の異名を持った時代の寵児による瀟洒な一冊。

持ってきた一冊は、寺山修司『時には母のない子のように』。
寺山修司という名は、読書や文化的な趣味を持つ人であれば、誰でも名前を聞いたことがあるほどに人口に膾炙した作家である。
「言葉の錬金術師」と呼ばれ、多くの質の高いエッセイをものした。劇作家としては「アングラ演劇四天王のひとり」として知られ、日本はもちろんイタリアをはじめとする海外でも高く評価されている。また歌人としては「昭和の石川啄木」の異名も持つ。テレビにも頻繁に出演し、タモリのモノマネ映像で彼を知る人も多いかもしれない。昭和後期には、まさに時代の寵児と呼ばれ、50歳を手前にして夭折した。

彼の経歴を見ると、綺羅星のように絢爛で太く短く生きた人の事例のように見える。
しかし多彩な作家は後年になると、評価が分散したり、誤解を招いてしまうことが多く、彼もその例にもれない。

さまざまな仕事の輝きに反射した光の乱反射に目が眩んで、その人そのものがあまり見えなくなってしまうのだろうか。寺山修司の場合は、そのまばゆさの中に積極的に身を投じることを望んでいたようにも思えるが、今日はこの店の雰囲気の中で、向かいの席に座った彼の話に耳を傾けるように、ページをめくりたい。

寺山修司『時には母のない子のように』

本を前にすると、ほぼ正方形の版型で、約60年前の昭和34年の初版とは思えないほど洒落ている。
本の中にも挿絵が多分に配されていて、大人の絵本のような印象がある。表紙のイラストレーションは、寺山修司と同時代から現在まで活躍し続ける、宇野亜喜良が担当している。古書に通じる者であれば、名前を確認するまでもなく、表紙を見てすぐにわかるほど宇野亜喜良の作風は個性的で、数多くの装画を手がけている。彼の名を知らぬ人も、麻布十番で毎年行われる納涼祭りのポスターやうちわを通してデザインを目にしている人も多いだろう。宇野亜喜良もまた、稀有な魅力を持った作家で、数十年立っても色褪せない仕事をしている。

寺山修司との仕事も数多く、本書でもさすがに文章と挿絵のリズムが小気味好い。名コンビならではの相性の良さを随所に感じさせる。

ロマンチックな四行詩、別世界の始まり

表紙を開くと、目次の前に数行の詩が配されている。

「時には母のない子のように
だまって海を見つめていたい

時には母のない子のように
ひとりで詩など書いてみたい」

たっぷりとった余白の真ん中に、窓の外を眺める宇野亜喜良の女性の絵と四行の詩。すーっと窓の中の女性に目をひきつけられるように、本の持つ雰囲気の中に引き込まれてしまう。
この本は「フォアレディース」シリーズという、女性向けシリーズの一冊で、当時の読者の多くは若い女性たちだったように思うが、男性の私でもこのページだけで、気持ちがセンチメンタルな女性の気分に重ねられていく。まるで劇場の照明が落とされ、暗闇の中に舞台の幕が開くときのように、いままでとは別の世界が始まるようだ。

ランプシェード

続く最初の小見出し「七篇の詩」の序文はこんな一文で始まる。

「渚の砂に書いた詩は
海が消してくれるでしょう
あたしの頬に書いた詩は
なみだが消してくれるでしょう」

とてもロマンチックな四行詩。「消してくれるでしょう」と言うからには、悲しさや苦しみの感情がにじみ出た詩なのかもしれない。いずれ消えゆく詩とはどんなものなのだろうかと、想像をかき立てる。いまの時代、手帖への手書きのメモを遠く通り越し、ポケットの中の小さな道具ひとつで、文字はおろか写真や動画でもすぐに記録ができてしまう。確かな形を記録して共感する楽しみはとてつもなく増えたかもしれないが、その分、過去に対する味わい方はだいぶ淡白になっている気がする。この四行詩がまとう、いずれ消えてしまうものの持つ「儚さ」というロマンティシズムは見つけにくくなって久しい。

店内

また「砂」という言葉には、石川啄木『一握の砂』のよく知られた短歌が思い浮かぶ。

「東海の小島の磯の白砂に
われ泣きぬれて
蟹とたはむる」

この三行詩も初めに読んだときには、衝撃的だった。特に最後の一行「蟹とたはむる」には、啄木の不遇な人生のリアリティが重なりあっていて、何とも言えなくいじらしい余韻を残す。この短い言葉で、時の隔たりをひと息に乗り越えて、啄木の心情に引き寄せられてしまう。序文の四行詩は、この啄木の短歌を、時代を変え、男性から女性の視点に切り替えて語りなおしたかのような印象がある。

ページ

仮面の向こう側、勝ち負けの向こう側。

序文に続く「七篇の詩」から一篇引用してみよう。

「たいくつの仮面をはずすと
よろこびの仮面があります

よろこびの仮面をはずすと
いつわりの仮面があります

いつわりの仮面をはずすと
くたびれた仮面があります

くたびれた仮面をはずすと
とまどいの仮面があります

はずしてもはずしても
はずれない仮面は

いつもなみだを流している」

珈琲

子どもの頃、江戸川乱歩の『怪人二十面相』や亜流の仮面もののテレビドラマを見てよく考えたことを想い出す。いつもたくさんの仮面をつけ替えていると、本当の顔を見せることはほとんどなく、そのうち本人もどれが仮面で、本当の顔がどこにあるのかわからなくなってしまうんじゃないだろうか、と。同じような不安に苛まれた子どもは、ほかにもいるだろうし、いまになって思えば、当時はそれを見た大人の方が、現実の社会の中でさまざまな場面に合わせ、顔を仮面のように使いわけている自分を見るようで、そら恐ろしかったかもしれない。

この仮面の詩の語り口には、どこか美少女か美少年を思わせるような、メルヘンチックなスマートさがありながら、その一枚裏側には、真理を穿つ鋭い詩情と底深い悲しみが横たわっている。ほかの六篇の詩も含め、描かれている対象はどこか滑稽で、プラスかマイナスかというとマイナスな感情がそこにある。しかし、ただ暗いわけではなく多分に人の眼をひき、共感させてしまう詩情が満ちていて、読後しばらく余韻を残す。

本棚

寺山修司は、競馬で馬に賭ける場合も、勝ち馬を見極めるという買い方ではなく、その馬の名から物語を探し出してそれを楽しむような買い方をした。敗けた馬にもそれぞれに物語があり、勝ち負けに関係なく魅力的な物語を自分は買っているのだというように。ただの勝ち馬であれば、配当が渡されてそれで終わりだが、負けた馬であっても物語はその先まで続いていく。勝負の世界でも、勝ち負けの向こう側を見定めていたような著者の視点が、読後の余韻に強く影響しているように思う。

中庭の樹

ひと呼吸ついて、本から目を外すと、横のガラス窓の先は、吹き抜けの中庭空間になっていて、外から見たとき、建物の真ん中を突き抜けていた樹木の幹を下から仰ぎ見ることができる。幹の伸びゆく先には、吹き抜けの天窓が外に開かれていて、そこから穏やかな木漏れ日が射し込んでいる。店の中に大きな木が立っているというのは、まるで大きな樹の下で読書をしているような安心感と居心地の良さがある。
室内で喫茶をしながら、大きな樹の下での木漏れ陽の読書が愉しめるというのは、この店ならではの特徴だろう。

――つづく。

店舗情報店舗情報

ロゼ
  • 【住所】香川県高松市木太町1488‐3
  • 【電話番号】087‐867‐6789
  • 【営業時間】7:30~18:30
  • 【定休日】第2、第4、第5日曜
  • 【アクセス】ことでん「木太東口駅」より5分

文:川上洋平 写真:佐伯慎亮

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川上 洋平(ブックセレクター)

1980年、東京生まれ世田谷育ち。2015年から香川県高松市に住みつつ、東京と行き来しながらの二拠点生活。「book pick orchestra」代表。選書、本の企画から、ひとりひとり話を聞いて本を選び、お酒とともに読書を愉しんでもらう「SAKE TO BOOKS」など、さまざまな場所で人と本が出会う場所や時間をつくっている。