東京都北区王子にある「江戸玉川屋」の創業は1935年。80年間、守り続けてきた伝統的製法は地元からも国からも認められた。令和を生き抜く乾麺屋の強さは、伝統だけではない。変わらないだけじゃだめなんだ。
「うちは大手メーカーのような麺の大量生産はできません。地方の業者のような広い作業場もありません。23区内にあった製麺業者が廃業していった中でも僕らがやってこれたのは、やっぱり『満さくうどん』という自社ブランドを持っているからなんだと思います」と、「江戸玉川屋」三代目社長の関根康弘さんは語る。
物心がついた頃から祖父や父が麺をつくっている姿を見て育ち、稼業を守り継ごうと心に決めたのは自然なことだったそうだ。
「江戸玉川屋」の強みは、「満さくうどん」のみならず。
地元の商店街に広く面した直売所には、近隣に住む人々が店の前を通りがてら麺を買っていく。
地元の住人に味を知ってもらうことを何よりも大切にしている。そう、康弘さんは言う。
真摯においしい麺づくりを続けていれば、直売所で麺を買ってくれた客から口コミは広がり、贈答品としても使われ始める。今では麺が送られてきた東京以外の人から、注文が入ることも珍しくないという。
「僕らの商売は、食べてもらわないとわからない。そしていかに知ってもらうかですね」
「江戸玉川屋」の心臓部は伝統的な製法を守り続けている麺づくりにあるのだ。
売場の上にある製麺工場は、康弘さんの弟である常務の清元さんが統括している。
工場が稼働しているときは「満さくうどん」と並行して、給食用のゆで麺や、個人店からオリジナルレシピで注文を受けたオリジナル麵もつくっている。
そのすべてを、清元さんが同時に状態を管理しながらつくっているから驚いた。
あっちを向いても、こっちを向いても清元さんの姿がある。
「江戸玉川屋」の麵づくりは効率とは対極にある。と聞いていたが、それを可能にしているのは、職人のおそろしいまでの手際の良さに違いない。
見事な手捌きでつくられた麺は、その場でパックに詰められるものもあれば、ベルトコンベアで階上の干場に運ばれるもの、階下のゆで場に続くチューブの中に消えていくものなど行く先は様々だ。
製麺場を中心に、建物の中をくまなく製造ラインが巡っている。まるで、建物がひとつの大きな生き物で、心臓部から血液が送り出されているようだ。東京、それも23区内という場所ならではの発想である。
康弘さんが父の詔さんから社長業をバトンタッチして、意欲的に取り組み始めたのは企業とのコラボで開発するオリジナル麺だ。
同じ北区内にある老舗調味料メーカー「あみ印」のかつての定番商品「カレーラーメン」の復刻に始まり、「スパリゾート・ハワイアンズ」とのコラボや、プロテイン入りのうどんとパスタの開発。訪日外国人をターゲットとした浮世絵仕様のパッケージの開発など、自家製麺を中心に商品の幅を一気に広げた。これらのコラボは、立案からたった3ヶ月ですべて同時に形にしたというから驚きだ。
関根家の手際の良さは、社長業にも表れている。
乾麺は味が劣化しにくいということで、土産品としての需要が増えているそうだ。「サンリオ」とともに開発した商品は、なんとピンク色の麺にピンク色のスープという見た目も鮮やかなとんこつラーメン。細めの乾麺とさっぱりとした豚骨スープは、見た目に反して真正面からの正統派の味わいだ。しっかりとキティちゃんの海苔もあしらわれている。
柔軟な発想とフットワークの良さは、磨き上げた技術があればこそ。基本の麺づくりがなければ、せっかくの新商品も次の機会に繋がらない。
「コラボする企業さんにも、まずはうちの麺を食べてもらいます。味わいと僕たちの麺づくりを知ってもうことで、一緒につくることができる商品の幅広さを知ってもらうんです」
それでも、結局はね。と続けます。
「23区で唯一の乾麺製造所ということで、注目されることはあっても、やっぱり麺のおいしさで評価してほしいんです」
康弘さんは真っ直ぐな眼差しできっぱりと言った。
二階にある事務所から通路に出ると、団地や住宅が軒を連ねる町が目に入った。遠くには、車が途絶えることなく走る北本通りが見える。そうなんだ、ここは東京の町の中なんだと再確認した。
手元には、康弘さんからもらった「満さくうどん」がある。梱包された袋に書かれている「東京・王子」の四文字が、なんだか誇らしげに見えた。
――おわり。
文:高野ひろし 写真:岡田孝雄