東京23区で最後の乾麺屋は、効率よりも手間と経験を大切にした麺づくりを続けている。80年間、真摯に向き合ってきた麺づくりへの姿勢は、地元だけではなく国からも評価されるものになった。「江戸玉川屋」が時代を超えて愛される理由はどこにあるのだろう。
朝7時から始まった麺づくりの仕事が一段落したところで「江戸玉川屋」の歴史を三代目社長の関根康弘さんに訊いてみた。
「創業は1935年です。僕の祖父にあたる関根元吉が、この王子の地で製麺所を始めました」
北区王子には、隅田川と石神井川をはじめとした大小様々な河川が流れている。都内には珍しく水源が豊富な土地だ。水が潤沢に手に入る王子は、製麺工場を営むには恵まれた条件だったのだそうだ。
「コーセー化粧水」や「王子製紙」の発祥の地でもあり、高度経済成長期には多くの工場とそこで働く人たちで賑わう町となった。
「当時はまだ、都内のどの町でも商店街の一角に麺屋があったそうです。東京は地方のように広い敷地を持てないから、製麺所の上が乾麺の干し場になっているという工場も多かったと思います」
「地方の製麺所の人がうちに見学に来ると、たいていビックリするんです」と笑う康弘さん。
都内の商店街の一角というのは、麺をつくるには常識外れな狭さらしい。
確かに、工場内の物の配置や製造ラインの動線には一切の無駄がない。大きな製麺機と粉袋がひしめくように並び、通路は人ひとりがギリギリ通れるぐらいの広さだ。麺をつくるときにはサウナのような温度と湿度になるので、普通以上に息苦しく感じるはずだ。
工場は第二次世界大戦で一度焼失してしまったそうで、戦後に初代の元吉さんが兄弟と協力して建て直した。
「創業から今まで、工場の場所は変わってません。王子の町が更地になったときも、栄えたときも『江戸玉川屋』はここで麺をつくり続けていたんです」
1960年には食糧庁のモデル工場に認定されたこともあって、宮内庁への麺の納入を始める。宮中で行われる収穫の祭祀、新嘗祭の奉納用のうどんには、今でも「江戸玉川屋」の麺が使われている。
戦後、米食一辺倒だった日本の食事に変化が必要だと考えた元吉さんは、小麦でつくった麺をもっと流通させるために奔走する。食糧庁や関係省庁に小麦の魅力を訴えかけるかたわら、給食で使える麺の開発も同時に進めた。
1963年には、開発を続けていた麺がついに東京の学校給食に採用される。誰もが食べたことのあるだろう懐かしいソフト麺は、元吉さんが中心となって開発した製品だったのだ。
ソフト麺の製造をきっかけに、学校給食への麺供給がスタートし、現在は都内6区175校に麺を納め、特に地元北区では小中学校のための麺づくりをすべて担っている。
「祖父の時代は、冷蔵設備が家庭に普及していなかったので、保存できる乾麺の需用があったんです」と語る康弘さん。
日本が高度経済成長期に入り、人口の増加とともに、生産性が重視されるの世の中になると、乾麺よりも短時間で食卓に並ぶ即席麺、ゆで麺といった手間のかからない麺が人気になっていったそうだ。
さらにスーパーマーケットの誕生と増加で、乾麺製造から撤退する製麺所が相次いだ。
「うちも当時は相当苦しかったと思います。それでもなんとかやってこれたのは、王子の方々との繋がりと給食への需要があったからですね」
1981年には「江戸玉川屋」の自社ブランド麺として「満さくうどん」が誕生する。
創業以来守り続けている湯捏ね製法と、通常の4倍の時間をかけて乾燥させる熟成乾燥という、時代を逆行するような丁寧な麺づくりで、手打ちうどんのような食感を目指した看板商品だ。
時期を同じくして、工場の一階にある直売所で自家製麺の販売を始めた。地元の人に自家製麺のおいしさを知ってもらおうと、業務用向けだった麺屋さんから地域に根付いた麺屋という道を歩み出したのだ。
2009年には「満さくうどん」の特徴的な伝統製法が評価され、北区名品30選に、2013年には東京都地域特産品に選ばれる。
「もうこの頃には、東京23区内で乾麺をつくってたのはうちだけでしたね」
現在は注文に応じた原材料と製法で、うどん、蕎麦、ラーメン、パスタまで多種多様なオリジナル麺を納入し、店頭販売も続けている。
――つづく。
文:高野ひろし 写真:岡田孝雄