夏の終わり。生い茂る緑と川に囲まれた東京の西側を歩く。汗がしたたり落ちてどうにも喉が渇いてきた頃に、たどり着いたのは一軒の蕎麦屋。ああ、焼き味噌や旬のつまみと蕎麦前が沁みる、沁みる。
少し歩いて、ひと汗かいたら蕎麦屋で一杯やりたい。そんなことを考えた夏の終わりのこと。
まだ暑いけれど、ちょっとばかり無理をして、歩くことにした。
高尾山に登るのもいいが、高尾周辺は、川沿いに歩くのも楽しい。
高尾駅北口からバスで丘をひとつふたつ越えると、北浅川にさしかかる。ここから西恩方(にしおんがた)の集落へは川沿いに歩くこともできるし、バスの終点は、高尾山の裏側の景信山(かげのぶやま)への登山口に近い。
京王線の高尾山口駅には温泉施設もあるし、隣駅の高尾駅界隈からは、南浅川に沿ってぶらぶら歩く道もある。
そして、少ーし、汗をかく。ビールが恋しい。というよりも、渇いて渇いてもう我慢ならぬ、という状態になったならば、西八王子からほど近い蕎麦屋の暖簾をくぐりましょうか。
店の名前は「坐忘」。荘子の言葉だそうです。我らがついたテーブルの脇にも背後にも、この荘子の言葉が壁紙代わりに貼ってある。言葉の意味は、割と見たままで、静座して現前の世界を忘れ、雑念を除くことだそうです。
伺ったのはお盆の最終日。午後は非常に暑かった。そんな日に無理をして散歩をしてから店へ寄った私は、エアコンの冷気と、落とし目にした店内の明かりの具合にすぐさま癒され、震えるほどに、ビールを欲する。そう、雑念の塊になっていたのです。
冷たいビールが、喉に、胃に、沁みていく。五臓六腑などと大袈裟なことは言わないが、全身に沁みる感覚は、まさにそんな感じだ。
お通しに出たのは、ヘラに乗せて表面を焦がした焼き味噌で、甘すぎず、辛すぎず、絶妙な味加減と香ばしさで魅了します。そうそう、この焼き味噌なんだよ、と思わずつぶやきそうになる。というのも、以前にお邪魔をしたときも、最初の焼き味噌のうまさに驚かされたからなのです。
さて、おつまみですが、定番に先立ちまして、季節のものをいただくことにする。
まずは、蛸のたたきだ。見るからに涼し気な皿が出た。蛸は水だこ、みょうが、しそ、ねぎの薬味でさっぱりとしているが、蛸の身のシコシコも楽しめる。いつものように、同行は絵描きの八っつぁんと、まとめ役のお由美さんのふたり。いける口のご両人だから、2本目のビールもあっという間だ。
日本酒にいたしましょうか。ごく自然な流れでそうなるわけだが、店はお酒のほうも、いいものを用意している。
山形の“雅山流”の純米大吟醸をいただく。これは冷酒です。すっきりと、そして甘く、爽やかに。そんな思い入れで選ぶわけですが、お由美さんは、そこに一言添える。
「お燗酒もいいですよね。本醸造の」
シブいですね。暑い最中の燗酒がうまいのよ、ときた。本醸造クラスで十分うまい。こうおっしゃるわけです。
たしかに、絶品の蛸のたたきには冷酒もいいが燗酒も合いそうだ。夏もお盆の終わりとなれば、冷たいもので腹のほうも少しばかり弱ってきている。そんなときには、燗酒の温みも恋しい。なんてこというとちょっと艶っぽいわけですが、まあ、燗酒は後の楽しみということにする。
すると、そこへ出てきた二皿目の酒肴は、夏野菜のとろろ煎り出しです。
煎り出しというのは、鰹出汁に醤油や味醂で味を加えた汁で、ここに野菜を浸した素朴なひと皿。具材は甘長唐辛子、緑茄子、オクラ。素揚げしてあって、とろろがかかっていて、さらにふわりと鰹節だ。これが煎り出しの味わいと連携しておりまして、淡く、柔らかく、野菜の甘味を引き出すのです。
――明日につづく。
文:大竹聡 イラスト:信濃八太郎