「㐂寿司」の穴子。その煮上げ方には、どんな秘密が隠されているのか。格別な味わいはどうやって生まれるのか。今回は、伝統の手法のすべてを惜しげなく見せてもらう。
穴子を仕込むための第一段。「洗い」をするための作業場には時計が設置されているのだが、その針は通常よりも10分進んでいる。
「㐂寿司」四代目の油井一浩さんの弟で、週替わりでつけ台に立つ油井厚二さんが言う。
「ここまでの作業を11時までに終わらせないと、このあとには煮て、冷ます工程があるので、昼の営業に間に合わないのです。10分時計の針が進んでいるだけで、気持ちに余裕が生まれますし、1秒でも早く終わりたいという思いもあります」
洗いの工程を終えた穴子は、つけ台のある調理場で「煮る」作業に入る。
江戸前独特の仕事で、各店によってもやり方は異なる。担当するのは番頭の山岸利光さんだ。
「㐂寿司」では、穴子を煮る煮汁にも伝統の仕事が隠されている。
「毎日、穴子を煮るでしょ。その煮汁を濾して保存したものを“元つゆ”と呼び、翌日もまた使うのです。そのままだと、味が決まらないので、日本酒を足して、砂糖と醤油で味を調整します。つまり、鰻屋と同じように、この煮汁には何百匹もの穴子の旨味が凝縮されているので、そう簡単には真似できないし、つくれないですよね」
穴子は煮崩れしやすいので、「引き笊」と呼ばれる竹籠を使って煮る。微妙な火加減と時間は門外不出だ。
沸騰した煮汁に穴子を入れ、アクをすくって待つ。煮上った穴子は、菜箸では持つことができないほどふっくらと柔らかい。
煮上がった直後は、熱くて握ることができないので、粗熱が取れるまで常温で冷ましておく。
「㐂寿司」の穴子はもちろん握りで食べるのがいい。けれども、煮上がった穴子を網に乗せて、片面だけさっと焙って、わさびと塩でつまみにするのも一興だ。鰻の白焼きとはまた違う、穴子の香りを楽しむことができる。
握りは絶対に焙ることはない。口に含むと、ホワホワと穴子がほどけ、濃厚な脂と香りが口の中、いっぱいに広がる。もちろん、穴子特有の嫌な臭さは微塵も感じない。わさび、甘いツメとの相性も抜群だ。
しかし、常連客の中には、「穴子を塩で」と注文する強者もいる。
また、「煮切り醤油を塗ってちょうだい」という人もいる。
一浩さんは、本当に質のいい穴子でなければ、この食感は生まれないと語る。
「まずは素材が命です。『山五』もうちの好みを知ってくれていますから、あとは先先代の大旦那、先代の旦那が工夫を重ね、店のやり方として残した仕事をしっかりと受け継ぎ、後世に伝えてゆくだけです。結局、毎日、同じことの繰り返しの中で気づかされることばかりなんです」
本当にうまい穴子を食べると、それまで食べてきた鮨種は、この穴子を食べるための前菜に過ぎない、と思ってしまう場合がある。もちろん、そんなことはないのだけれど、それほど、圧倒的なうまさと存在感のある「㐂寿司」の穴子は、間違いなく、この店のメインディッシュなのである。
――つづく。
文:中原一歩 写真:岡本寿