苗を植え続けた。一心不乱の体で、2時間近く。せっせせっせと、ちぎっては植え、ちぎっては植えを繰り返した。気がつけば、泥の海だった田んぼには、愛らしい緑の苗がちょこんちょこんと顔を出している。大きな満足と、少々の不安。われながら、よくやったな&いいのかな、これで。
パン、パン、パンと、立て続けに破裂音が轟いた。山のほうから。鬱蒼と茂る木々の間から、乾いた銃声が間欠的に聞こえてくる。ぼくらは田植えどころではなくなった。
「猟友会の人たちが練習しているんですよ。弾が飛んでくることはないから安心してください」
スタッフさんが教えてくれたのだが、「安心して」と言われても、やっぱり少しおっかない。
そういえば最近は、山に住むクマやイノシシが、たびたび人里に下りてきて問題になっているらしい。
「ところで、この辺りには稲に悪さをする害獣はいるんですか?芋や野菜、果物がサルやシカに荒らされるという話はよく耳にするけれど」
「稲に悪さをしにくるやつがいるんですよ」
スタッフさんが真顔で答えた。
いちばん厄介なのがイノシシだという。春に苗を植えて、半年かけて育て上げ、いよいよ収穫間近というときになって、イノシシが親子連れで現れることがある。田んぼに踏み込んで、稲をなぎ倒すように地面に背中をこすりつけていく。それも何ヶ所にもわたって。イノシシは穂を食べるわけではなく、ただ遊ぶように荒らして帰っていくらしい。あとには無惨に倒されて、刈り取ることができない稲が残される。
「まるで嫌がらせにやっているようで、ほんとに嫌になりますよ」
背中を稲穂にこすりつけて体毛についたムシでも取っているのかもしれない。しかし、ぼくはやっぱりイノシシが、人間に嫌がらせをしているのだと思う。
実はイノシシはとても賢い。食欲という本能だけで生きる愚鈍な動物ではない。彼らは山の中で人間を観察している。人間には悟られぬように、身を潜めて木の葉の隙間からぼくらを、じっと見ているのだ。と、ある動物学者が言っていた。
米という主食となる稲を、イノシシが荒らすのは、軽はずみなイタズラなどではない。彼らはいつなんどき、人間に撃たれて、ジビエ料理にされるかもしれないことを、よく知っているのだ。人間が大事にしている稲を荒らすのは、これ以上、山に近寄るな、というシグナルじゃないかな、とぼくは思う。
しかし、やっぱり冗談じゃない!
苦労して育てた稲を簡単にダメにさせられてはかなわない。ふだんのぼくはどちらかというと、野生動物保護に意識がいきがちだが、実際にこうして田んぼで汗を流してみて、もし万が一この稲が台なしにされたらなどと考えると、許せん!と思う。ぼくはすでに農家目線で田んぼを見ていた。
さて、田植えを再開。腰につけた籠の中がカラになりつつある。根を詰めてやりすぎて熱中症で倒れたりすると、みんなに迷惑をかけるなあ、という思いが頭をかすめつつ、「すいませーん、苗をくださーい」と、自然に声が出た。畦に待機するスタッフさんに声をかけて、追加の苗を投げてもらうのだ。いったん田んぼに入ると、ひどくぬかるむ泥土の中を歩いて畦に上がるのはひと苦労。そこで待機している人に声をかけて苗を頼むことになる。
ぼくが苗を投げてもらったのは若い女性だった。ずばっとストライクで苗が胸元へ届く。訊くと、この棚田の世話をしている地元の女子サッカーチームの選手だという。なるほど、スローイングで培ったのか、さすがのコントロールだ。
苗が届くと、なぜか自然に手が動いてしまう。こんな短時間で動きが身についたというわけではないだろうが、体が自動化されたみたいで、ちょっと不思議な感じだ。
「休んで麦茶を飲んでください」と畦道から声がかかった。そろそろ正午だ。気づくと、田んぼに入って熱心に働いていた人たちが、ずいぶん減っている。みんな日陰に入って、ひと休みしていた。
腰を起こして、改めて自分が植えた苗を眺めてみた。シートの歪みからできた隙間も塞いで、われながらいい出来だと思える。少し離れたところで手際よく苗を植えつけていた男性がいた。彼の苗と自分の苗を比べてみた。
並びは同じようなのだが、よく見比べると植えた苗一束の本数に違いがあった。その人の場合は、どの束も2、3本と揃っている。ところがぼくの場合は、4本や5本の束もところどころ混じっている。最初のうちは2、3本ずつ丁寧にやっていたのだが、途中から本数にばらつきがでてきて、多めになっているものがあった。
理由は苗のブロックから2、3本だけちぎりとるのが、次第に面倒になるからだ。3、4本と多いほうが楽にちぎり取ることができる。しかし多い分にはさして問題ないだろう。そもそも、こんなにかぼそい頼りない苗なのだから、むしろ少し多めのほうがいいのではないか。
ところがこの「大は小を兼ねる」という素人の感覚が大きな間違いだったのだ。麦茶で喉を潤そうと田んぼからあがろうとしたとき、ぼくは見てはいけないものが目に入り、愕然とした。
――つづく。
文:藤原智美 写真:阪本勇