お昼ごはんを食べて、東京へと向かう。青春18きっぷの旅も、このまま電車に揺られながらエンディングを迎えるものだと思っていたら、もうひと仕事なのである。地下鉄じゃないのに、深い深い地下に駅のホームへと向かうという。
浦佐で川魚料理と地酒を堪能したぼくらは、上越線に乗り一路、越後湯沢へ。到着後、さらに各駅停車の旅を楽しむべく、今度は水上行きに乗り換えた。
しかし、ぼくは車窓に目を向ける間もなく睡魔に襲われてしまった。前夜の睡眠不足と、あの「浦佐やな」でのおいしい地酒がここにきて酔いとなって効いてきたのだろう。
電車に揺られながら夢心地の中、突然、江部さんの声が耳元に突き刺さる。
「降りまーす」と肩を揺すられ、ぼくはここがどこかもわからないまま電車を降ろされた。
そこはホームがたったひとつ、線路も一本という小さな無人駅だった。鳥の声ひとつない静かな冬の風景の中に、ぼくらはポツリと取り残されてしまったのだ。なんだか寂しいぞ。駅の名前は土合(どあい)というらしい。
それにしても寒い!というのも当たり前で、この駅は日本でもっとも厳しい冬山として知られている谷川岳の最寄り駅なのだ。
江部さんが「ぼくらは谷川岳には登りません」という。「当然でしょう。ぼくは登れません」と答えると、彼は「下ります。どんどん地下へ下るんです」などと、まったくおかしなことをいう。
それもそのはず、この駅は「日本一のモグラえき」だった。駅舎の看板がそう自称していた。
どういうことか説明しよう。
いま、ぼくらが降りたホームは上り線専用だ。つまり長岡方面に向かう下りのホームがないのだ。で、下り線はいったいどこを走っているかというと、これが深い深い地下なのだという。問題はその高低差だ。なんと約81m!。東京都内で一番深い地下鉄駅は大江戸線の六本木駅で、地表からの距離が約42mというから、土合駅の下り線ホームがいかに深いかがわかる。これが日本一のモグラ駅といわれる所以だ。
ぼくはかつて『運転士』という地下鉄を舞台にした小説を書いたくらいで、もともと地下の駅が嫌いではない。いや、どちらかというと大好きだ。たとえば千代田線の新御茶ノ水駅。あの長いエスカレータに乗って、地下の奥深くのホームへと下っていくとき、何ものにも代え難い、ひそかな快感を覚える。自分の心の深部へと降りていく感覚とでもいえばいいか。じっとステップに立って自分の意識を下降する流れに集中する。だんだん気持が日常から離れて浮遊していく。そんな感じがいいんです。
「高低差81mを下るエスカレータというのは、きっと凄いんだろうな、ワクワクするな、ありがとう」と、こんな凄い体験をプレゼントしてくれる江部さんに感謝すると、彼はため息まじりに「地下ホームへは階段しかありません。全部で500段くらいとか」と答えた。
なんと、エレベータもエスカレータもないのだ!しかも階段を下るということは、帰りは階段を上るということじゃないのかい。ここまで戻ってこなくては、東京行きの上り電車には乗れないじゃないか。あー、なんてこった!
ぼくらはまず、地上の長い連絡通路を歩かされた。なんだかムダに歩いているなあと思いきや、この通路を通らなければ地下へは行けないのだという。下りのホームが線路と平行して流れる湯檜曽川の対岸に位置しているからだ。つまり上下線は川を挟んでずれて通っているというわけ。その距離の分だけ、連絡通路を歩かなくてはならない。しかしこの通路が、なんとも薄暗くて陰気そのもので、古い病院の渡り廊下を連想させる。でも、この陰気さは、昭和っぽくて案外悪くない。
狭苦しい通路を進むと、唐突に明るい場所に出た。と、正面に見上げるほど大きな三角形の構造物が、ぼくらの行く手をさえぎるように立っていた。なんだ?みんなで推理しあって出した結論が風防の衝立。地下鉄駅のホームに電車が入ってくると、階段あたりに突風が起こる。あれですね。でも、こんな大きなものが必要だということは、それだけ風の勢いが凄いってこと?
下りホームは長さ約13.5kmの新清水トンネルの途中にある。長い銃身のようなトンネルの中に、電車が弾丸のように勢いよく滑りこんでくるわけだから、きっと凄い突風になるんだろうな。
でも、この先1時間ほどは下り電車はない。つまり風も起きないということだ。ああ、ひと安心。下りの階段で突風に見舞われるなんてごめんだ。
さらに前に進むと、辺りがぐっと暗くなった。いよいよかな?と、思う間もなく、目の前に見たこともない光景が現れた。コンクリートで固められた人工的な空間なのに、どこか神々しい雰囲気さえ感じる。おお、美しい!ぼくは正直、感動しました。こんなところは初めて。まっすぐにどこまでも下っていくトンネル状の階段が続く。半円の壁と天井は先へいくほど狭く、最後はどこにあるの?果てがないじゃないか!きっと行き着く先にホームがあるのだろう。あるんだよね、江部さん。
ぼくは一歩一歩、ステップを踏みしめるように地下へと降りていった。
――つづく。
文:藤原智美 写真:阪本勇