米をつくるということ。
地下との遭遇。

地下との遭遇。

深い深い地下へと伸びる階段を下りていく。もしかしたら二度と地上へ戻れないかもしれない。なんてことはないはずだけれど、地下で何が待っているかわからないから、ちょっとだけ不安もある。そこには地底人がいて、やって来た人間を食べてしまったりして。土合駅の下りホームへと続くその道は、とにかく妄想が膨らむ階段なのです。

ここは逆に「時」を忘れさせてくれるのだ

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はるかな下り階段

世界には名だたる「階段」が数ある。映画で取り上げられたものに限っても『ローマの休日』のスペイン階段、『戦艦ポチョムキン』のオデッサの階段、『ロッキー』で有名になったフィラデルフィア美術館正面にある、その名もロッキー・ステップなどなど。誰もが「見てみたい」「上りたい」「下りたい」と思う階段には、それぞれ魅力的な個性が備わっている。

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では、土合駅の上下ホームを繋ぐこの階段の魅力って何?
ぼくは長い長いトンネル内のステップを下りながら、はたと気づいた。土合駅の階段が素晴らしいのは、やはりそれが地下に向かっているからなのだ。暗い静寂の中をどこまでも続くステップは、上り下りする人の精神に働きかける何かがある。
実際に一歩一歩踏みしめるように下りていくと、意識は次第に自分の内面に向かう。ぼくは階段を下りながら、知らず知らずのうちに、自分の過去や人生を思い起こしているのでした。

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階段を下りる藤原さん

5分間も下りたところで、視線の先に終点がぼんやりと識別できるようになってきた。丸くポツンと開いた小さな穴、それがゴールなのだろう。やがてぼくらは土合駅の下り線ホームに到着。ここまでの道程を改めて振り返って見上げると、その段数に唖然とした。一直線の地下階段としては、この長さは世界でも指折りじゃないのかな。

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さて、この土合駅の地下ホーム、なにより面白いのは、都内にある地下鉄の駅などとは雰囲気がまるで違うところだ。まず、ぼくら以外に人がいない。深閑としていて、おまけに薄暗い。空気の揺らぎがまったくなくて、何もかも、時の流れさえも止まったみたいに感じる。駅というものはとかく時間に追われ実にせわしない場所だが、ここは逆に「時」を忘れさせてくれるのだ。

各段に数字がある
ホーム

空気に妙な温もりがある。このホームがそれほど地中深いところにあるからだろう。ぼくは帽子を取りコートを脱いだ。北国にいるとは思えないほど気持ちいい。まさにモグラになった気分?

たったひとりでどこからやってきたのか?

地上の土合駅が開業したのは昭和7年だという。当時はスキーシーズンのみ臨時停車する駅だったらしい。いまから百年ほど前にも、スキー客なるものがいたとは驚きだ。それから時代は進み、昭和42年に新清水トンネルが掘られて、その中に土合駅下り線の地下ホームが設置された。そう考えると、ぼくが下ってきたのは昭和7年から昭和42年までを繋ぐ道ということになる。このタイムスリップをしばらく楽しもう。

土合駅案内板

しばしこの未知の空間体験を楽しんで、いよいよ地下とお別れの時間がやってきた。地下ホームから地上に向かう階段を見上げ「上りはきついぞ!」「足がつりそう」などと、みんなワイワイ騒いでいた。と、気配を感じてその声がピタリと止まった。階段の高みに小さな人影が見える。それはゆっくりとこちらへ向かって下りてくる。ジャンパーのポケットに両手を突っこみバッグひとつ持たないその人は、たったひとりでどこからやってきたのか?

思い出ノート表紙
ノートのコメント

若い男性だった。この間、上り電車は到着していないはずだし、この地下ホームに次の下り電車がくるまで、だいぶ時間がある。彼はぼくらなどまったく目に入らないかのように、乱れのない規則的な歩調で黙々と階段を下りると、そのままホームへと姿を消した。彼もこの階段に魅入られた人なのだろう。でも、いったいどこからやってきたの?不思議だね。

はるかな上り階段

――つづく。

文:藤原智美 写真:阪本勇

地下との遭遇。

藤原 智美(作家)

1955年、福岡県福岡市生まれ。1990年に小説家としてデビュー。1992年に『運転士』で第107回芥川龍之介賞を受賞。小説の傍ら、ドキュメンタリー作品を手がけ、1997年に上梓した『「家をつくる」ということ』がベストセラーになる。主な著作に『暴走老人!』(文春文庫)、『文は一行目から書かなくていい』(小学館文庫)、『あなたがスマホを見ているときスマホもあなたを見ている』(プレジデント社)、『この先をどう生きるか』(文藝春秋)などがある。2019年12月5日に『つながらない勇気』(文春文庫)が発売となる。1998年には瀬々敬久監督で『恋する犯罪』が哀川翔・西島秀俊主演で『冷血の罠』として映画化されている。