生の握り“あわび”には黒鮑を用い、じっくり煮て味を煮含めてツメを塗って供する“蒸しあわび”には希少で高価なマダカ鮑を用いている。それぞれにおいしさがある中で、それでもマダカ鮑にこだわる理由はどんな点にあるのだろうか。
「クロ」「雄貝(おんがい)」「オス」などと呼ばれる黒鮑。それに対して魚河岸では「びわ貝」とも呼ばれるマダカ鮑は、貝の表面が琵琶の実のような黄色っぽい色をしている。豊洲市場にある貝専門の仲卸「丸佳」の山岸佳弘さんもマダカ鮑は鮑の中でも別格だと断言する。
「マダカは黒鮑よりも深い海の岩礁に生息していて、海女泣かせの貝と言われています。殻の形も黒鮑に比べると丸みを帯びているので目が慣れてくると見分けがつくようになりますよ。とにかく漁獲量が少ないので、幻の鮑とも呼ばれています」
マダカ鮑は黒鮑と並べてみると表面の色も貝殻の形、突起の形状もまったく違う。成長すると直径が30cm、重量が1kgオーバーにもなる。まるで岩礁の主のような大物は、目が飛び出すような値段で売り買いされる。黒鮑が1㎏で2万円前後。値段を聞くのは野暮というものだ。
「㐂寿司」の番頭格の職人である山岸利光さんが昔話を教えてくれた。
「かつて料理屋や鮨屋の軒先や玄関には、それは立派なマダカの貝殻が飾ってあったものですよ。世の中には目の肥えた客もいて、それをみるだけで初めての店でも店の格と力量を察したものです。日頃から信頼する仲卸と付き合っていなければ、1kg超えのマダカは手に入りませんから」
その話を聞いて思い出したのだが、「㐂寿司」の軒先の生垣にもマダカ鮑の貝殻が転がっている。鮑は黒鮑もマダカ鮑も禁漁期があり、毎年、4月から5月にかけて漁が解禁となる。
そして、鮑が旬を迎える夏が終わる9月になると全国一斉に禁漁となる。
四代目の油井一浩さんは、仕入先は明かしたくなかったと苦笑いする。
「マダカは希少だから市場にも出回らないし、馴染み客でなければ品物があっても“ないよ”と言われる。ただ、黒鮑とは別物の旨味と香りがあって、何より煮貝など火を入れることで柔らかく仕上がるんです。酢飯との一体感もいいので鮨種には最適なんです。もちろん、普段は黒鮑を使いますが、マダカが手に入ったと聞いたなら、その中でもさらにいいものだけを選って値段は尋ねずに仕入れるのは先代の頃から変わりません」
旬を迎えた夏の鮑は、握りの前に、まず、つまみで味わいたい。マダカ鮑が入った時はなおさらだ。
鮑は遠慮せずに「かぶりつく」のが正解だ。噛んだ瞬間、歯を押し返すような心地よい弾力と、咀嚼してゆくうちに豊かな香りが溢れでてくる。
運がいい日は鮑の「肝」に巡り合うことができる。鮑好きにとって「肝」は取り合いになること必至の希少部位だ。青銅色をした魅惑の肝は、姿は悪くても味はいい。
「㐂寿司」では煮鮑(「㐂寿司」での品書きは“蒸しあわび”)を握るとき、酢飯と一緒に、この肝を噛ませて握る。なんと贅沢なことか。鮑はツマミだったら、そのまま、もしくは、塩をちょこんとつけて食べるのが旨いが、握りであれば山葵と甘いツメに限る。
「鮨屋でマグロに次いで高価な種は鮑ですよ。その理由は原価が高いから。鮑の握りは一貫2,000円はいただかないと割りが合わない。それでも、マグロみたいに、鮨の華と言われるような種でもない。まさに知る人ぞ知る、鮨種なのかもしれません」
――つづく
文:中原一歩 写真:岡本寿