夏の鮨種の王様、鮑。生もいいが、「㐂寿司」の江戸前の伝統の仕事といえば、煮上げた鮑にツメを塗り、海苔をひと巻して供する鮑の握りだ。酒と塩と水でゆで、鮑本来のエキスの旨味を煮含めた鮑の歯ごたえ、そしておいしさといったら……!
「㐂寿司」の夏は鮑で始まる。
鮑といっても生ではない。東京では「煮貝(にがい)」と呼ばれる「煮鮑」のことだ。
新緑の若葉が目に眩しい季節、鮨屋で「煮貝でも切ってもらえるかい」と切り出す客は、よっぽどの“通”である。
鮑といえば生で食べるのが定番だ。とくに身が大きく硬い黒鮑「雄貝(おんがい)」を、生のまま大胆に賽の目に切りつけ、氷水に落とし、コリコリとした歯応えを楽しむ夏の「水貝」は、関西では涼を呼ぶご馳走として知られている。
しかし、鮨の世界で鮑といえば「煮鮑」に尽きる。最近は同じ鮨種でも「蒸す」手法が流行しているが、そもそも江戸前では「煮る」が正統だ。
「㐂寿司」ではこの「煮る」手法を施した鮑を、“蒸しあわび”の名で供している。
その理由は不明だが、二代目の頃からそう呼んでいるという。ものの本によると、昭和の初めから、「煮鮑」ではなく「蒸し鮑」の名称が普及したとあり、時代の影響なのかもしれない。
その煮鮑(「㐂寿司」での呼び名は“蒸しあわび”)は夏の献立の筆頭を飾る。鮑はある程度の大きさと厚みがないと値打ちがない。四代目の油井一浩さんは最低でも500g以上の貝しか使わないと話す。
「煮汁は水と日本酒です。これを火にかけて、ゆっくりと1時間30分ほど煮ます。煮上がった鮑は鍋ごと冷まして落ち着かせ、その過程で煮汁に溶け出した鮑の旨味をゆっくりと煮含ませるのです。最低でも3つか4つ、一緒に煮ないと肝心の香りが立ちません。素材の良し悪しが仕上がりを大きく左右します」
昼下がり、「㐂寿司」にお邪魔すると、店の小上がりに煮上がった鮑が鍋ごと置かれていることがある。鮑の旨味が溶け込んだ白濁した煮汁の中で、縮むことなく、むしろ威風堂々たる姿を見せる煮鮑は、どこか神々しささえ漂う。夏場はこの仕事を週に2回こなすという。
一浩さんが鮑を仕入れるのは豊洲市場にある貝専門の仲卸「丸佳」だ。
店頭の水槽にはお目当ての鮑がゴロゴロしている。いずれも天然の黒鮑である。
「丸佳」の二代目の山岸佳弘さんが鮑の見分け方を教えてくれた。
「鮑は指でヘソと呼ばれる部分を触ればわかります。鮮度はもちろんですが身が硬く締まっているものがいいんです。中には火を入れたときに硬く、縮んでしまうものもあります。雄よりも雌のほうが柔らかいからと好む人もいますが、それは使う人の好みですね」
現在は乱獲で水揚げは減ってしまったが、かつて鮑といえば「房州」が代名詞だった。
房州とは千葉県の太平洋沿岸に位置し、中でも「大原」で獲れる黒鮑は別格だった。奈良時代の木簡にその名が残されていたという。房州の黒鮑の価格は、1kg単価で2万円以上になる。鮨屋で鮑はマグロに次いで高価な種というのも納得だ。
もちろん、「㐂寿司」でも普段は黒鮑を仕入れる。
しかし、一浩さんがシーズンを通して狙うのは、「マダカ」と呼ばれる黒鮑とは別種類の鮑だ。
――つづく
文:中原一歩 写真:岡本寿