ずっと食べてきた「米」。けれど、米がどうつくられているのか、本当のところはよくわかっていない。農家の苦労はよく耳にする。果たして、それはどんな苦労なのか、実際に目にしたこともない。米をつくるって、どういうことなんだろう。少しでも、この手に米をつくることの実感を残したい。そんな想いを胸に、田植えへゴー。
人として生まれたからには、一度は田植えをしてから死のうと決めていました。理由はつぎの通りです。
6万年から10万年くらい前、アフリカにヒトが誕生。やがて道具を発明し、うまい肉にありつくようになった。それだけならイノシシやシカや木の実を食べ尽くして、それで終わりというところを、人類はなんと穀類の栽培を思いつき、これによって爆発的に人口は増えていき、世界は人類だらけになってしまう。
ぼくは平地が少ない日本列島の片隅に、へばりつくように生きながらえている。70億人の中のひとりというわけだけど、自分が今ここに存在するのも、穀物あってのことなんだなあ。
で、ぼくにとっての穀物は何かといえば、小麦ではなくやっぱりお米だ。フランスパンも食パンも好物だが、どれが一番か?といわれると、ふっくら炊きあがったあの白いご飯しかない。なにしろ「お」がつくのは米だけ。お小麦とはいわない。
しかし近頃、米はパンや麺類に押され気味で、食卓での印象が薄れている気もする。ちょっと調べてみると、日本人ひとりが食べる米の量は半世紀前の半分近くまで下がっている。なんと半分ですよ!
一方で、米の消費量は減っても、その存在感はどんどん上昇している気がするから不思議だ。米のご飯はたんなる日常食というより、ぼくにとっては今やしっかり味わって食べる「ご馳走」になった。なにしろ全国には次々に美味しいブランド米が生まれていて、今月はどれを食べようかと、頭を悩ます今日この頃なのだから。
そこで稲作のスタートである田植えを体験しようと決めた次第。ぼくは還暦を過ぎた。田植えは、それはそれはきつい農作業だという。やるなら今でしょう。
2019年5月25日の早朝、東京・池袋駅前に駆けつけた。
朝6時30分、定刻通りに我々スタッフを乗せたバスは、新潟県に向かってまっしぐらに走りだす。目指すは十日町の棚田だ。十日町というより魚沼地区といったほうが通りがいいかもしれない。つまりぼくたちは、あの名高い魚沼にコシヒカリを植えるのだ。しかも農薬は使わない。魚沼産、コシヒカリ、無農薬という3拍子そろった田植えである。
田植機も使わない。手で一束ずつ植えていく。現地の田んぼは棚田ゆえに機械が入らないという。みんなで一束ずつ植えていく手植え、いわば人海戦術である。この「手植え」を加えると3拍子ではなく4拍子だ。とはいってもね、素人ばかりだから、手植えの部分はマイナスポイントか。そこは田んぼにとっては少し迷惑かも。
道中、衝撃的な情報がもたらされた。現地の気温がなんと摂氏30度を超えそうだという。5月にしては記録的な暑さになるらしい。よりによって田植えの日に!
「藤原さん、覚悟してくださいね。でも絶対に無理しないように」
60代の身にとっては、笑って聞き流せない情報である。
頭の中で身繕いを点検する。まず、頭を守るためにサファリ帽を手に入れた。ツバの広いレトロな麦わら帽子が最適なのだろうが、持ち運びに不便で購入を断念。麦わら帽子をかぶって山手線には乗れないよね。いや、潔く乗るべきだったか……。
度付きのサングラスも新調した。陽の光がギラギラと反射する水面を予想して。
首に巻くのはバンダナできめようかと考えたが、やはりここは白いタオルだ。首筋を流れる汗を吸いとるのはタオルが一番。
上半身は長袖のシャツ。半袖のTシャツは動きやすく涼しそうだが、日射しを避けることを優先した。でも30度を超えるとなるとどうなんだ?脇の下から腕を伝わり袖口に溜まる汗が思い浮かぶ。
ボトムはジーンズ。屈んだり、足を伸ばしたりの動作を考慮してストレッチの効いたものを選んだ。使い捨ての手袋も用意。ゴム長靴は現地で用意してくれるというので、これで準備は万全だろうと思ったが、「30度超え」と聞いて、ヒモ付きの水筒がいるんじゃないかと心配になる。田んぼの中で喉の渇きを覚えたらどうする?簡単に畦までもどれないぞ。
事前に田んぼで手植えする人たちの古い写真をたくさん見た。
昭和の初期の写真では、今やあまり手に入らない装束がたくさん映っている。頭にかぶる傘、かすりの服、稲でつくった蓑など。最近の田植え写真に映っているモノは通販で手に入る。
しかしどの時代にあっても、プロはだれも水筒などを下げて田植えをしていない。きっとジャマでしようがないはずだ。とはいってもかつては、30度を超えるような日に田植えなどすることは、まずなかっただろう。やっぱり水筒はいるか?でも手持ちはペットボトルの麦茶だけ。どうする?シャツは脱いで風通しのいい半袖Tシャツでいく?
あれこれ悩んでいるうちに猛烈な眠気にみまわれた。きょうは朝の4時起きだったのだ。そして、いつのまにか深い眠りに落ちた。このあと、どんな凄いことが起こるかも知らずに。
――つづく。
文:藤原智美 写真:阪本勇