牛は動物である。牛肉は食材である。どの牛肉も最初は子牛だ。時を経て、たっぷりの肉を纏い、大きな体になっていく。この世に生を受けてから、約2年。牛は人の手で肉になる。牛を飼うことで、何かが変わって、何かを識ることができるかもしれない。農と食のジャーナリストで知られるやまけんこと山本謙治さんと、短角牛「さち」の物語。
2008年10月、雪がそろそろ降るという頃、牧草が枯れるので牧野から牛を下ろす時期。子牛市場が開かれ、普通はここに子牛を出品し、肥育農家に売ることになる(肉牛農家にはふた通りある。母牛を飼い、子牛を産ませてその子牛を販売する繁殖農家と、子牛を買って太らせ、肉牛に仕立てて販売する肥育農家だ)。
僕はさちを肉牛として自分で売るつもりだから、市場には出荷せず、二戸市の腕利きの肥育農家である漆原憲夫さんにさちを肥育してもらうことを選んだ。
牧野にいる間は放牧世話代を含め、1年で十数万円しかかからなかったが、肥育段階では1日の餌代が450円程度かかるようになる。あらまあ、けっこうな金額だ。長く飼うと餌代がかかるから、すみやかに大きくなって出荷できる体重になってくれる牛ほど、お金がかからないいい牛だというのがよくわかる。外野で「じっくり飼ったほうがうまい」とかいうのは楽だが、こっちはそんなに気楽に構えてられないんだヨ、と畜産農家のキモチがわかるようになってしまった。
実はオスとメスでは、オスのほうが育ちが早い。オスとはいっても、わりと早いうちに去勢されるけれども、それでも成長の速度には違いがある(オスが去勢しないまま育つと、硬くて匂いの強い肉になってしまうのだ)。
オスは25ヶ月程度で十分大きくなるが、メスはもう少し長く飼ったほうがいいとされているのだ。僕は自分たちで食べるのだから、普通より長くてもいいからおいしく育ててほしいとお願いした。
肥育段階の牛には、栄養価の高い穀物を与えて育てる。通常は輸入のコーンを中心にした餌を与えるが、漆原さんは、地元で生産された雑穀のカスをたっぷり与える育て方をしていた。それが好ましくて、僕は漆原さんに預けたのだ。
さちの顔を見に行くと必ず漆原さんは餌を混ぜて、給餌するところを見せてくれた。そしてこの段階で、驚くほどにさちは成長していた!バンビちゃんのようだった可愛らしい面影はどこへやら、ふてぶてしいほどに大きな肉牛に育っていた。残念やらホッとしたやら。
2010年の6月、とうとうさちが出荷に適する700㎏台の体重となった(肉牛を出荷するのは、700kg前後が適正とされている)。さちはメス牛だから、オス牛よりも体格的には小さいのだけれど、それでも「とってもいい体格だよ」と漆原さんは褒めてくれた。僕は少し逡巡したけれども、来たる6月22日にさちを漆原牧場からと畜場へ出荷することにした(家畜を解体し、部分肉に加工する食肉処理場。と蓄は、許可を受けたと畜場以外ではできないと決まっている)。
通常、肥育農家が出荷した肉牛は市場流通に乗って知らないところで売買されるが、僕は肉をすべて引き取って自分で売ると決めていた。
出荷当日、牛舎の中で最後に牧草をひとつかみ食べさせ、さちを家畜運搬車に乗せる。角に縄をかけて引っ張るのだけども、自分が出荷されると気づいたのだろう、足に根が生えたように動かない。それをなんとかなだめすかしながら、車に引っ張る。このとき僕は「大丈夫だから、大丈夫だから乗るんだ」と声をかけたのだけど、「大丈夫って言ってるけど、この子をと畜場に送るんだよ、俺は……」と思い、自分が嫌になってしまった。
なんとか車に乗せて、僕も杉澤くんと家畜運搬車の後を追う。普通、農家はと畜場へ送るのを人に任せて、自分は見送るだけだそうだ。そりゃあもちろん、つらいのです。僕もそうしたかったけれども、最後は見届けるために、と畜場までついていった。と畜場の入り口にある係留所にさちをつなぎ、彼女の顔に手を触れると、驚くほどの暖かさにハッとした。牛の体温は、人間の体温とそう変わらない。最後の最後に、彼女の生をしっかりと感じた。そのぬくもりは今でも思い出すことができる。
その翌日、さちは牛から牛肉になった。
――明日につづく。
文・写真:山本謙治