お客さんに儲けさせるんだよ――。「駕籠休み」店主、井島秋三さんの“哲学”はどういう意味なのか。どのような経緯でその考えに至ったのか。そして「日本に唯一軒」など、店を覆いつくす独特な文句の数々。どうやらすべては井島さんの少々変わった経歴と関係があるらしい。百聞は“一口”に如かず。うどんを食べてみると、深く納得せずにはいられなかったのだ。
『北斗の拳』のラオウ役が似合いそうな店主、井島秋三さんは、腹の底から鳴り響くようなド迫力の声で言った。
「お客さんに儲けさせるんだよ」
僕の目の前には「特選和牛丼」が鎮座している。黒毛和牛の肉が、お重の中のごはんを完全に覆い隠している。これが580円のサイドメニューだという。
さらに「辛味大根うどん」には大根がまるごと1本とおろし器がついてきた。好きなだけおろして、あとは持って帰れるようにとレジ袋までくれる。
「大根1本もらったら、そりゃおめえ気持ちいいだろ」と井島さんは言う。
「和牛丼なんか、100g1,500円の肉を100g使ってんだぞ。市場で一番高い肉だよ。1日に何食も出せないけどな。でも得した気分になるだろ」
いや、得した気分になるというより、汚れつちまつた僕などは身構えてしまう。そんなうまい話があるものか。何かからくりがあるはずだ。そもそも、たしかに旨い肉だけど、ほんとにそんな値段なの?
これは先に答えを書いておこうと思うが、後日、井島さんについて市場に同行したら、本当に浦和市場の精肉店で最も高い100g1,500円の黒毛和牛を買っていた。
疑り深い僕は、精肉店の店員に「ほんとに毎回これ買ってるんですか?」と、ラオウ井島氏に絶対聞こえないように超小声で尋ねたのだが、「ええ、そうですよ」という返事だった。
原価率30%が目安とされる飲食店にあって、この特選和牛丼に限っては原価率なんと250%以上。なぜそういうことができるかというと、井島さんの数奇な人生に秘密があった。
「若い頃は野菜の引き売りをやっていたんだ。俺は地区ナンバーワンだったんだぞ。ほうれん草が100円したら50円で売っちゃうんだよ。目玉にするわけ。そうすっと人が寄ってくるだろ。他に商品がいっぱいあるだろ。なんでも安く感じるんだよ」
「あの……なんでも安すぎませんか?丼物とか」
「ああ、丼はみんな損してるようなもんだな」
「ですよね。どこで儲けてるのかなって」
「やっとこさ儲かってんだよ。霞を食って生きてるようなもんだよ」
仙人かよ!
「昔はごはん、無料で出してたんだ。そうすっと、みんな頼むんだけど、量が多いから残していくんだよ。これはよくないと思ってお金をとることにした。でも、もともとタダで出していたものだから、ごはんもので儲けなくていいって。そういう考えなんだよ」
ナルホド。って、なんか違う!
などと話していたら、うどんが来た。グレーがかった色の極太麺、といかにも武蔵野うどんだが、ほかの店にはない特徴も見られる。波打つように縮れ、角に丸みがある。四角張った固そうな麺じゃない。箸で1本つかみ、つけ汁につけずにそのまま口に入れる。麺の表面はしっとりしていて、頬の内側に吸い付くようなやわらかさがあるのだが、噛めばモチッとした歯触りと、中心部に強い弾力があり、歯を押し返す。歯がワシ、と麺を貫通すると、小麦の風味がぶわっと香る。こりゃすごい。つけ汁につけるのがもったいなく思え、続けざまにそのまま何本も口に入れた。
うどんをワシワシ噛みながら井島さんに聞いてみた。
「そもそも、なんでうどん屋に?」
「野菜の引き売りで儲けてから、スーパーをやって3店舗まで広げたんだ。でも、規制緩和で大型店が増えてきてな。これはまずいと思ったんだ。それなら自分の好きな商売に変えちまおうと探っているうちに、うどん屋に辿りついた。小売業と違って、技術も値段も全部自分で決められるだろ。よそとは違う価値を出せば、お客さんは来てくれる。で、うどん打ちの特訓を5年やった。スーパーの営業が終わってから、夜中ずっとひとりでな。打った麺はぜんぶ友達にくれてやったよ。最初は『こんなもん食えるか』ってぶん投げられた。でもね、これが俺にはいい勉強になったの。失敗から学ぶっていいことなんだよ。失敗して、考えて、試して。これを繰り返したら全部身につく。5年たったら、『お前の打つうどんはうまいなあ』って言われたよ。で、ここにあったスーパーを今の店にしたの。最初の1ヶ月間は店の前を通る人に無料で食わせた」
1ヶ月も?と驚いてしまうが、小売業で培った手法を、飲食店でやったのか。そう思ったら、逆ザヤの特選和牛丼も大根丸ごと1本のサービスもすべて合点がいった。
「お客さんに損させちゃダメなんだよ。損したことは誰にも話さないだろ。人間の心理だよ。儲けたことは人に話す。それが話題性だよ。口コミになって広がるんだよ。うどんもほかとおんなじようにやってたらダメ。遠くからでも足を運んでもらって、食べて『ああ、うまかった』って心から思ってもらわないと。お客さんに儲けさせなきゃ。だから俺のうどんは打ち方から特殊だよ。誰も真似できない。材料もそう。水から違うんだよ」
麺をつけ汁につけて食べてみると、鰹節が華やかに香った。すっきりしているのに、緻密な濃い香り。
「な、ウチは山の天然水を使ってるから全然違うんだ」
「水、買ってるんですか?」
「買っていたら地粉手打ちうどん1杯680円なんて出せねえよ。水は遠くまで車で取りにいってるんだ」
もうその頃には、僕は井島さんの強烈なカリスマ性と哲学に心酔しており、彼の仕事をとことん追いかけたくなっていた。まずはすべてのルーツ、水から――。
――つづく。
文:石田ゆうすけ 写真:阪本勇