埼玉県大宮にあるうどん屋「駕籠休み」。大宮駅とさいたま新都心駅の中間にあって、どちらの駅から歩いても10分以上、まわりはビルが並ぶ吉敷町の通り沿い。抜群にいい立地ではない。営業時間は昼間の10時から15時の5時間のみ。それなのに、平日でも200食の手打ち麺が売り切れ、週末ともなれば全国津々浦々からうどん好きが大勢やってくる。
「いい手打ちうどんを出す店があるんだ。そこの店主がまたメチャメチャおもしろいんだわ」
友人があんまり強く薦めるので、その店「駕籠休み」に行ってみることにした。場所は埼玉県の大宮。あとで知ったのだが、埼玉はうどんの生産量で、香川に次いで全国2位だそうだ。
埼玉がうどん県だと聞いてもピンと来ないが、武蔵野うどんの本場、と聞くとナルホドソウカと思う。水田に向かない武蔵野一帯では、小麦の生産が盛んで、うどんづくりが普及したらしい。
平日でも昼前になると行列ができると聞いたので、10時過ぎという早い時間に大宮駅へ。そこから歩くこと10分あまり。ビルやマンションが立ち並ぶ大通りに、遠目からでも一発でそれ――おもしろい店主がいる店――とわかる物件があった。
《究極本格》
《頑固こだわり》
《こだわり素材》
《地粉専門》
《手打ちうどん》
《日本に唯一軒》
墨が飛び散らんばかりに力強く筆で書かれたそれらの文字が、店の壁を隙間なく埋め尽くしている。まるで耳なし芳一だ。
暖簾は幽霊船の帆のようにボロボロに破れ、《うどん》の字の《うど》までしか読めず、屋根を覆うテント看板も異様に年季が入って黒ずんでいる。
これは入店するのに勇気がいるな、と思いながらドアを開けてみると、入り口付近には値札のついた野菜や果物が所狭しと積まれ、農産物直売所に入ったような気分になった。こりゃどういう店だ?
野菜の脇を通り、奥へ進むと、「いらっしゃいませー!」という気持ちのいい声が聞こえた。目の前に広がった店内は、やはり『魁!!男塾』のタイトルロゴのような極太の筆文字で埋め尽くされている。
その暑苦し、いや、雄々しい様子から、さぞかし体育会系男子が集まるのかと思いきや、意外にも若い女性客が多い。よく見るとテーブルや窓は磨き込まれ、清潔感にあふれている。何より人々の表情がよかった。食べている客も店の従業員たちも朗らかで、空気が明るいのだ。こりゃあいい店だぞ。
席に座り、書道教室のように壁に貼られた筆文字をあらためて読む。どうやらサイドメニューの丼らしい。
「……え、何これ?」
《一押し、超奉仕品、国産特選和牛丼、限定品580円》
《一押し、鰻丼、限定品580円》
《一押し、鮭鰤丼、北海道寒鰤、限定品390円》
《一押し、海の幸丼、紅鮭、ツブ貝、限定品390円》
《一押し、豚カルビ丼、限定品390円》
いくつ“一押し”があるんだよ!
それにしてもなんという安さだろう。半信半疑で「国産特選和牛丼」と「辛味大根うどん」を頼む。
すぐにおろし器と大根が丸ごと1本運ばれてきた。
「大根はおろしてから15分後が一番おいしいですよ」と店員さんが丁寧に説明してくれる。
「好きなだけおろして、残った大根はお持ち帰りください」
うまいやり方だなあ。なんだかすごく得した気分になる。
うどんの前に和牛丼が来た。値段からして小さい茶碗に入ったミニ丼だろうと思っていたら、やや小ぶりながらもお重だ。牛肉で完全に覆われていて、下のごはんがまったく見えない。イクラまでのっている。これが580円?
さすがに和牛じゃないでしょ、と苦笑しつつ食べてみる。
「ワギュー!」
うわわ、完全に和牛じゃないか。それも上等の。これがサイドメニュー?
そこへ押し出しのいいおじさんがやってきて、唐突に切り出した。
「それ、浦和の市場で一番高い和牛だぞ」
『北斗の拳』のラオウ役が似合いそうな野太い声だ。というか、ラオウそのもののような人だ。店主らしい。
「その肉いくらだと思う?」
「えっ、いや……」
「100g、1,500円だ」
ええっ!?このお重だけで100gぐらい入っているでしょ!
「それじゃ商売にならないんじゃ……」
「おう、店は大損だよ。でもこれでいいんだ」
ラオウは不敵な笑みを浮かべた。
「お客さんに儲けさせるんだよ」
「???」
人からモモタロウと呼ばれる(ラオウじゃなかった)店主、井島秋三さんのその“哲学”は、このあと出てくるメインのうどんにも、たっぷりと練り込まれているのである。
――つづく。
文:石田ゆうすけ 写真:阪本勇