1月も半ばを過ぎれば、マグロのいちばんいい時季は終わりへと近づいていく。とはいえ、市場から、そして鮨屋からもマグロが消えることはない。中でも、鮨屋にとってのマグロは圧倒的な存在感を示す、なくてはならないもの。「㐂寿司」も然り。マグロへの思いは格別。仕入れ、握るのは、見目麗しき赤身である。
2018年に亡くなられた「㐂寿司」の大旦那の油井隆一さんは、気に入ったマグロが入った日は誰の目にも上機嫌だった。
「今日は大間の200kg。握っていると手に吸い付いてくるみたいで最高だね」
こんな日は客あしらいまで違う。ここぞとばかりにのっけからマグロが登場する。四の五の言わずに食べてみてよ、絶対に旨いから。大旦那はマグロを褒められると子供のようにはにかんでみせた。逆に満足のゆく品物がない夏場などは、会話にマグロの「マ」の字も登場しない。こんな日は、こちらから声をかけないとマグロにありつくことはできない。
大旦那は納得できないけれども、必要に駆られてやらざるをえない仕事を「逃げる仕事」と呼んで遠ざけていた。夏のマグロはその最たるものだった。それでもマグロを切らすことはただの一度もなかった。マグロがなければ鮨屋ではないとの思いが強かったのだと思う。
中でも希少な国産本マグロは多くの鮨職人にそんな感慨を抱かせる。
一般的に「トロ」と呼ばれるのはマグロの腹の部分。その中で最も高価なのが「腹カミ」だ。「赤身」では「背ナカ」が最高級と言われる。
「㐂寿司」が使うのは「背ナカ」だ。5kgから10kg前後の塊を、3日から5日に1回、同じ仲買人から仕入れる。マグロは「㐂寿司」の大黒柱だと四代目の油井一浩さんは語る。
「うちのマグロはずっと、魚河岸の『石司』から仕入れています。仕入先は大旦那の代からずっと変わりません。生のまま、切ったままを提供するマグロは、酢と塩で〆る、煮汁に漬けるなど、仕事を施すほかの鮨種以上に真剣勝負。だからこそ、その日いちばんの品物を自分の目で見て確かめて買うようにしています」
生の高品質のマグロを求めるからこそ、よほどのことがない限り、赤身を煮切り醤油に漬け込んで握る「ヅケ」はやらない。冬は津軽海峡、春は壱岐や佐渡、夏は紀州勝浦や銚子、秋は塩釜と季節によって産地は変わる。しかし、産地を優先するわけではない。その時々でプロの目利きが選ぶ、最良質の赤身を仕入れることを心がけている。
マグロと日本人の関係は古い。日本最古の歴史書『古事記』には「シビ」の名前で登場する。
そもそも日本列島は、マグロの回遊路の内側にあり、春になると太平洋に姿を現すカツオ同様に、大群をなしてやってくるマグロは、季節を告げる魚として親しまれてきた。日本列島の各地には、マグロを描いた絵馬が残る神社や、大漁を祈念した石碑がいくつも残されている。
マグロが初めて鮨種になったのが江戸後期。一説には天保年間(1830-1844)に江戸は馬喰町の「恵比寿鮨」が最初だと伝わる。
しかし、その魚体に似合わずマグロは足が早い。冷蔵設備が充実していない時代は下魚として扱われていた。脂の多いトロの部分は江戸っ子には敬遠され、もっぱら鮨といえば赤身。それでも、時間の経過と共に酸化が進み、変色してしまうことから、醤油につけて「ヅケ」にする手法が考案された。
マグロが本格的にもてはやされるようになったのは戦後。最初は海外から輸入されるインドマグロ(通称インド)が主流だった。日本近海で獲れた生の本マグロが日の目を見るのは、日本各地と築地市場をつなぐ物流の大動脈である高速道路が整備され、市場でも冷蔵庫が普及するようになった昭和30年代後半から40年代前半だ。
その後、バブル期を経て、グルメブームが到来。高級鮨店の台頭でマグロの需要は一気に高まる。「大間」に代表される産地がテレビで取り上げられるようになり、日本の食材の最高峰に君臨することになる。
ひと口に赤身と言っても、実際にはさらに細かい部位に分けられている。いちばん腹に近く脂がのった「中トロ」。血合い際の味も香りも濃い「血合いぎし」。柔らかく、赤身のトロと呼ばれる「ヒレ下」。ほとんど筋がなく絶妙な食感の「天端」など。「㐂寿司」では店に入ってくるなり、好みの部位を指定して注文する常連客もいるという。
「マグロにもお客様の好みがあります。それこそ熟成を好む方もおられますし、細かい部位を指定して、そればかり数貫食べる人もいます」
部位によって味や食感が違うマグロだからこそ、当然、部位によって切りつけ方、握り方も変える。たとえば、味が濃い「血合いぎし」はやや分厚く、玉子同様「鞍掛け」と呼ばれる手法で。また、「ヒレ下」は薄く削ぐように切りつけたマグロの身でシャリをくるむように握る。
いずれも、頬張るとマグロの香りが鼻にプンッと抜けて、口の中でシャリと一体となって消えてゆく。
忘れていけないのが鉄火巻き。鉄火の芯はもちろん握りでも使う赤身だ。マグロが入るだけで出前用の盛り込みもうんと華やかになる。
数ある鮨種の中でも食べ手の胃袋を鷲掴みにできるのはマグロだけだ。旬は1月いっぱいだが、結局、どの季節でも恋しくなって注文してしまう。
やはり、手間暇を惜しまない江戸前の鮨種の中でも、切って握るだけのマグロは特別なのだ。
暖簾をくぐるなり「今日はいいマグロあるかい?」と訊ねる常連の気持ちもよくわかるというものだ。
文:中原一歩 撮影:岡本寿