「変わらずに生き残るためには、変わらねばならない」。もしかしたらアラン・ドロンは、築地の場外市場にもこう言い放ったんじゃないだろうか。そう思わせるほどに、築地は変わっていながら、変わらない。『山猫』でバート・ランカスターは、かの言葉に取りつく島もなく、貴族は没落の一途を辿るわけだけれど、築地場外市場はどっこい生きてる。元気だ!
築地場外市場は、マッチ箱を並べてギュッと圧縮したようなつくりで、小型店舗が多い。ラーメン店「若葉」もそう。カウンター5席の小さな店だ。大通りの歩道に沿って建っていて、客が肘をのせるカウンターの端から、歩道の白線まで1mあるかないか。歩行者がよろけると、客の背にぶつかりそうな近さだ。人でごった返す市場の賑わいを、客はすぐ背後に感じながら食べることになる。
市場が初めてという人には、もしかしたら入りづらいのかもしれない。でも「若葉」は違う。入りやすいどころか、吸い寄せられる。ラーメンの気分じゃなくても、つい暖簾をくぐり、着席したあとで「あれ?なんで俺、座ってんだ?」と自問する、という人もいるかもしれない。
白地の暖簾に、“若葉”色に染められた店名ロゴ、壁も白に若葉色、明るく、清潔感があふれている。そして何より、ラーメンをつくる夫婦の顔がいい。ニコニコ朗らかで、陽のオーラが出ている。自然と足が向いてしまう。
「昭和30年創業だから、もう64年ですね。私で二代目です」と店主の若林吾郎さんが言う。
「なんで『若葉』なんですか?」
「店が春にできたから、若葉ってつけたみたいですね」
詩的だなあ。先代も吾郎さんのようにやわらかい人だったのかもしれない。
場内が移転して、変わりましたか?
僕はこれまでと同じ質問をした。
「客層が変わりましたね」と、やはり同じ答えが返ってきた。築地の飲食店は本来、築地で働く人たちを相手にしていた。早朝から店を開け、昼過ぎに閉店するのもそのためだ。
「でも朝は人が減りましたからね、営業時間を変えました」
午前10時からの人出が増えた、という案内所の山崎さんの話が思い出された。
「5時開店を、5時半にしたんです」
カウンターにのせていた肘がズルッと滑った。30分遅らせただけ?
「観光客の割合は増えたんですが、昔の築地のお客さまが今でも通ってくれるんですよ」
朝の5時台から営業開始と聞くと、僕なんかは驚いてしまうが、築地という“街”はそういう時間軸で動いていたのだ。
ラーメンが目の前に出された。なんと細い麺だろう。そうめんよりは太く見えるが、ひやむぎよりは細い。
「東京一細いんじゃないですか?」
訊ねると、吾郎さんは不敵な笑みを浮かべた。
「いえ、たぶん、日本国一です(笑)。私の知る限り。中華麺で一番細い28番より、さらに細くしています」
市場関係者相手の商売だ。急いでいるときに、早くゆであがる細麺は有効だろう。
スープをすする。臭みや雑味がなく、すっきりと透明感がある。一瞬、鶏ガラかと思ったが、違う。豚骨かな。
次いで麺をすすると、おお、これは新感覚。ふわふわした口当たり。糸こんにゃくみたいだ。噛めば、細麺にからまったスープがじゃぶっとあふれ、きれいに抽出された豚骨の旨味と、醤油、小麦の香味が混じり合う。ふわふわ、じゃぶっ、ふわふわ、じゃぶっ、と続けざまに麺をすする。旨い。麺が“のびている”と“やわらかい”は違う。コシの強い麺が称賛されがちだが、コシを残しながらも表面はやわらかめで、スープを吸っているのが僕はいい。さらにこの店の極細縮れ麺は、麺1本1本だけでなく、からまってスポンジのように塊全体でスープを吸うのだ。じゃぶっ。うふ。
「スープは豚骨ですか?」
「ええ、豚骨です。動物系は」
煮干しも鶏ガラも入っていないんですか?と聞いたら、入っていないという。確認のために聞いただけだったが、吾郎さんは僕のこの質問に別の意図を感じたのか、「最近、ラーメンもすごいですからねえ、大変ですよ」と言った。僕は慌てて「いえいえ、僕は最近の凝りまくった“一発当てたろう”みたいなラーメンがダメなんです。疲れちゃうから。昔ながらの中華そばのほうが断然好きです」と返すと、吾郎さんは珍しそうに僕を見たあと、微笑んだ。
「そう、守るものは守っていかないとね。でも、少しずつ変えていかなきゃならないこともあります。日祝の市場の定休日は、店も休みだったんですが、開ければやっぱり観光客相手に出ますからね」
偶然か、必然か、場外で話を聞いた人がみな「変化」を口にした。その必要性を常に肝に銘じているんだなと感じた。世界最大まで発展した、市場の根幹に流れるスピリットか。
ラーメンを食べたあと、コーヒーを飲みに「東都グリル」に寄った。「昔からある店で、市場の仲買さんたちで賑わっています」と案内所で聞いたのだ。
食品サンプルのショーケースを横目に地下に下り、自動扉が開くと、ワッと凄まじい喧噪に包まれた。怒号のような囃し声に、豪快な笑い声。築地だ、築地が残っていた!
14時過ぎという時間なのに、店は混んでいて、みんなできあがっていた。
注文を取りにきた女将さんが「すみませんね、明日は市場が休みだから」と小声で言う。「いえいえ、こういうの求めていたんです」と言うと、あらそうなのね、と笑った。
「豊洲に移転してからも、市場のみなさん、来てくれるんです。ほんと申し訳ないぐらい」
真っ昼間からの豪快な飲みっぷりを見ながら、僕もビールにすればよかった、と思ったが、自転車で帰るのでそうもいかない。
お会計のとき、女将さんに話を聞くと、ここに来る客は朝から飲むらしい。
「うちは名前のとおり、一応は洋食屋ですけど、生魚が人気なんですよ。仲買さんや寿司組合の人たちが食べにきてくれます」
味に太鼓判を押されたようなものじゃないか。席に座り直して、食べていこうか、と一瞬思ったが、旨いお造りに酒を合わせられないなんて、辛すぎる。美女においでおいでされながら、背を向けるぐらいなら、最初から会わずに、次にとっておこう。
自転車にまたがり、走り出した。
(やっぱり、“地力”がある)
来るたびに発見があり、奥へ奥へと導かれていく。一歩足を踏み入れるたびに魅せられ、去るときはいつも後ろ髪を引かれる。
また来よう――。そう思わせる“地力”は、移転という最大の変化を迎え、昔の築地ではなくなった今も、やっぱり健在なのだ。
――つづく。
文・写真:石田ゆうすけ