自転車で走った。阿佐ヶ谷から永代橋、そして浅草橋へ。昭和が香る中華そばを求めて。結果は2敗1分けといったところかな。もう一度、ペダルを踏んだ。前回、黒星を喫した「幸貴」を目指して。勝利の美酒ならぬ、勝利の美そばのために。リターンズは、バットマンでもなく、キッズでもない。浅草橋の「幸貴」だ!
取材するときは、普通はアポをとる。当然である。
でもこのシリーズ「麺店ポタリング紀行」は、基本アポなしの飛び込み取材だ。前回のように、店の場所さえ確認しないこともある。いや、ほんとは店も決めずに行きたい。町をふわふわ自由に漕ぎ、昭和風情のヴィンテージ店を探していくのだ。自転車の機動力と自由さを生かした“宝探し”である。どうせならワクワクしたい。食べるだけではなく、見つける喜びも味わいたい。東京という大海原を舞台に、帆を広げ、宝を目指して漕ぎだすのだー!
という企画なので、最初に行った店は3ヶ月前につぶれていて、2軒目の店「幸貴」は到着10分前に店が閉まり、3軒目の店でようやく食べられたと思ったら取材を断られ......とこれまで2回書いて、まだ1軒も紹介できていないという惨状である。
今回もハズしたら、さすがにエベ(編集長)の恵比須顔も曇るに違いない。だから狙いを定めていこうと思う。上に書いた2軒目の店「幸貴」だ。昭和風情ではなかったが、小さな店がガード下に埋まっている様子が琴線に触れた。子供の頃によくつくった“基地”みたいだった。それに昼の2時間しか開けていないというのも気になる。浅草橋駅から徒歩1分の立地で、営業時間がわずか2時間。それで成り立つなんて、どんな味なんだろう。
前回は阿佐ヶ谷の自宅から中央線の南側を攻めたので、今回は北側を攻めながら東へ向かおう。
細い道を当てずっぽうに入っていくと、交通量の多い道に出た。早稲田通りだ。それを東進する。
20分ほど走ると、視界にただならぬものが入り、急ブレーキをかけた。
古い酒屋さんは日本各地に結構残っているが、これほど意匠を凝らした建物も珍しい。まるでお城だ。水きり庇まである。さらには、このポップ!世界が出来上がってるなあ。いつの建物だろう。聞きたくてうずうずしたが、10分遅れて麺を逃した前回の轍を踏むわけにはいかない。すぐに出発する。
しかし、営業時間が2時間というのも、寄り道癖のある自分にはなかなか辛いものがある。余談だが、酔狂でやった自転車世界一周旅行は、当初3年半の予定だったが、なぜか7年半もかかった。
緑が増え、若い男女が増えてきたかと思うと、早稲田大学が現れた。
やはり早稲田通りを行けば早稲田大学に突き当たるのだ。きれいなお姉さんとすれ違った。甘い香りが鼻孔をくすぐり、思わずついていきそうになった。さすが一流私大女子。レアル・マドリードと対戦したJリーグの選手が「みんないい匂いがした」と話していたのを思い出した。
神田川を渡り、東京ドームの横を走り抜け、不忍池の蓮の群生を鑑賞。
上野駅のガードをくぐって、さらに東へ。
この辺かな、と適当なところで右に折れ、南へ下っていくと、ある横丁の入口に目が吸い寄せられた。
どんな通りだろう。気になるなあ。でも時間がない。腕時計を見ると12時50分。「幸貴」は13時半までだ。ぎりぎりに着いて、スープが終わっていたら目も当てられない。
「……でも、ちょっとぐらいいいか」とその横丁に入ってみると、古びた木造の建物や格子戸が並び、急に北陸の古町に来たような気分になった。やっぱり寄り道はいいな。旅で心に残るのは、不思議と予定から逸れた場所なのだ。
って、いかん!本気で急がないと。
あっ、素敵な銭湯。
って、時間がないっつうの!なに自転車置いて撮影してんだ!
南へ南へ走ると、総武線のガードに突き当たった。浅草橋駅がすぐそこに見える。いいぞ。当てずっぽうで曲がったけど、ドンピシャだ。ガード沿いに駅に近づいていくと、現れた。
よし、まだ暖簾が出ている。間に合った。
中に入るとカウンター席が5つ。やっぱり“基地”みたいだ。ちょうど1席だけ空いている。強面の店主がひとり、忙しそうに動いていた。先週も来たんですけど、と言おうと思ったが、とても言える雰囲気ではない。ワンタンメンを頼む。
色が濃いな。麺もやや太い。正直、ビジュアルはそんなに好みじゃない。
まずはスープをひと口。豚骨と醤油の旨味に、ごくかすかな生姜の香り。見た目からは意外なほど優しい味だ。お風呂につかったようにため息が出る。次に麺をすすると、「うまっ!」と前のめりになり、それからは一心不乱、夢中で麺をすすり続け、一気に半分近くまで食べてしまった。止まらなかった。こんな忘我はいつ以来だろう。麺にはモチモチした弾力があるのだが、表面はつるんとしてやわらかく、スープの旨味をたっぷり吸っている。噛むとスープが香る。そう、これだよ。麺のコシばかり強調した店が多いけど、こんな風に麺とスープは溶け合ってほしいんだよなあ。
食べて感動したとき、僕は言わずにおれない言葉を店主に言った。
「おいしかったです」
國村隼のようないかつい顔のおやじさんはオヤ?という顔をした。
「そんなの言われたの、初めてだよ」
えっ、まさか、と思ったら、店主はいたずらっぽい目でニヤリと笑った。あれ?意外とお茶目な人なんだ。
アポなしで申し訳ないのですが、とお詫びして企画の意図を説明し、取材をお願いすると、快諾してくれた。
「スープには何を?」
「ヒトガラだね」
ヒトガラ?そんな食材があるんだ。いや、部位かもしれない。いずれにしても食の取材に来ていて知らないというのはカッコ悪いな。知ったかぶりしよう。
「はあ、ヒトガラ、ですか......」
「そう、ヒトガラ」
國村隼の目が怪しく光った。ん?
「......あの、ヒトガラって?」
おやじさんは「鶏ガラ、豚ガラ」と言ったあと、自分の肋骨あたりを指して「人ガラ」と言った。やられた。僕がブッと笑うと、おやじさんもますます茶目っ気のある笑顔になった。ずるいよなぁ。いかつい人が冗談を言うと、おもしろさも倍増するんだから。
「エベさんに聞いてきたんです」と言うと、おやじさんは「え、そうなの?」と馬券が当たったように顔を輝かせ、それから優しい表情になって思い出話を語り始めた。それがいつまでも終わらないのだ。待ってるお客さんいますよ!とこっちがハラハラしたが、その一方で、おやじさんが本当に嬉しそうに話すので、大切な手紙を届けた使者にでもなったような、妙にさわやかな気分になった。
店を出てもすぐに帰る気になれなかった。
周辺をポタリングすると、レンガ造りの昭和な喫茶店があったので、はい、タイムスリップ。
コーヒーの香りと今日の余韻に浸っていると、ふいに、さっきの店主と中華そばの符合に思いが至った。見た目からは意外なほど優しい――。
確かに「人ガラ」が入っていました。
――つづく。
文・写真:石田ゆうすけ