
進化を続ける東京の町焼肉。今回ご紹介するのは、渋谷・百軒店の奥で連日賑わいを見せる「新井屋」だ。いまや渋谷屈指の人気焼肉店として知られるが、その原点は高円寺で創業した「豚焼肉専門店」。店主・新井さんが「叙々苑」や三河島「山田屋」で培った技術と、試行錯誤の末に生まれたメニューの数々――。焼肉激戦区・渋谷で支持を集める、新井屋の魅力に迫ります。
渋谷駅から道玄坂を上り、百軒店商店街の方へ顔を向けたらちょっと驚いた。「こんなに焼肉店、多かったっけ?」と。入口のアーチの両脇とその向こうにも焼肉チェーンの看板が見える。百軒店を奥へと分け入れば、本連載で紹介した「どうげん」もある。そしてその手前に忘れてはならない店がある。

「新井屋」。2019年の渋谷出店を皮切りに、2021年には「はなれ」、2022年には「にかい」をオープンさせた。いずれもいまや渋谷指折りの名焼肉店だ。だが2013年、高円寺での「新井屋」創業からしばらくは苦しい時期があった。オーナー社長の新井英樹さんは当時をこう振り返る。
「最初は豚専門の焼肉店として立ち上げたんです。既存の焼肉店との差別化を考えつつ、近場にはやきとんの店もあったので受け入れられるかな、と。でも蓋を開けてみたら、全然お客さんが来ない。当時は給料も全額運転資金に回していました」
そんな創業当時の名残りのメニューが「渋谷はなれ」にもひとつ残っている。新井屋名物の“面脂(めんあぶら)”だ。豚の頬肉やアゴ肉を盛り込んだこのメニューは、焼肉店の店主としては一風変わった新井さんの来歴にも関わっている。
新井さんは調理師専門学校出身だ。もともと洋食志望だったが、ホテルのシェフを経て病院の調理職で20代前半を過ごした。「当時のホテルは薄給で生活がきつかった。病院には5年勤めましたが、素材と調味が厳しく制限されている上、自分がおいしいと思えないものを出し続けなくちゃいけないことに耐えられなかった」という。
そして新井さんは人生の舵を切った。
「好きな焼肉で身を立てたい」。そう決めた新井さんは、当時近所にあった叙々苑の門を叩いた。「いい店の仕事を覚えたかった」からだ。だが高級焼肉店とはいえ、チェーンとなれば全体効率が優先される。すべての仕込みを各店舗で行うわけではない。
「『もっと焼肉を覚えたい』と悶々としていたら、当時の料理長が三河島の山田屋が出店する新店舗に転職することになり、僕もついていくことになったんです。運のいいことに、僕の配属先は本店でした」
たれや調味料もすべてゼロから仕込む。大きな塊肉から筋や脂をはがし、パーツごとに調えて、焼肉カットに切り出していく。山田屋には新井さんが求めていた「焼肉屋の仕事」のすべてがあった。牛・豚問わず、正肉から内臓まで、5年かけて焼肉店の仕事を一通り腕に叩き込んだ。
しかし、2013年に開店した豚焼肉専門の「新井屋」に客は入らなかった。1年ほど経ってお客さんから聞こえてきたのは、「焼きとんは串で食べるもの。自分で焼く焼肉はやっぱり牛だよね」という声だった。新井さんは豚専門を諦め、牛タン、牛カルビ、牛ロースの3種の牛肉をメニューに加えた。


「差別化を考えていたけど、豚だけというのは、ちょっと早すぎたのかもしれません(笑)。以降、牛肉が増えていって、2015年頃には牛・豚の比率はほぼ半々に。そして2017年、叙々苑と山田屋で一緒に働いていた元同僚が合流して、2018年に阿佐ヶ谷店、2019年渋谷店と展開することになりました」
店舗が増えるに従って、店舗ごとの色も明確になっていった。現在も高円寺店では“トントロ”“カシラ”“ドーナツ”“豚ハラミ”などの豚焼肉メニューが充実している。豚肉のレギュラーが「面脂」のみの渋谷はなれとは違うメニュー構成だ。
他方、渋谷進出時に生まれたのが、いまや全店で看板メニューとなった「BIGハツステーキ香草バター」や上タン塩、上ハラミ、上下がりといった特選厚切りシリーズだった。
もちろん当たりメニューばかりではない。思いつくメニューを試作してはボツにする、を繰り返した。自身で「これはイケる!」と思えた品でも、スタッフからダメ出しが出ることもあったという。
「当時はまだ業界に友達もいなかったし、他の店に勉強しに行くゆとりもなかったからただただ必死でした。2021年に渋谷はなれで生食用の免許を取ったとき、小さいコッペパンにユッケをはさんで“生肉ユッケのホットドッグ”を出そうとしたんですが、なんだかスタッフに不評でメニューにもなりませんでした。でもまた挑戦したいんです。スタッフに(笑)」
ユッケドッグは形にならなかったが、ユッケは渋谷はなれでは客の9割が注文する大人気メニューとなった。新井さんが積み上げたすべてが新井屋の品書きには息づいている。
「モンクスープも思い入れが深い品ですね。山田屋由来の海藻スープなんですが、そのままだと渋谷のお客さんには少し粘度が強くて、小腸の脂が重い。だから少しさらりとさせて、小腸も軽くしてあります。でも本当に、山田屋で学んだことがいまの新井屋を支えてくれているのは間違いありません」
そう考えると、新井屋にはひとつ足りないものがある。青唐辛子入りの酎ハイ“青おに”だ。お代わりをするたびに新規の青唐辛子がグラスに溜まっていき、3杯目あたりから激辛になってくる。あの刺激を渋谷でも味わえないものか。
「実は高円寺の創業当初は出していたんですが、なじみがないのかそんなに出なかったんですよね……。でもやろうと思えばいつでもできるので、ご要望さえあれば!」

お言葉に甘えてこの日特別に作ってもらった新井屋風の「青おに」は一口目からピリリと辛い。てらっとする面脂を爽快に切り、ロースター上の次なる一片へと手を伸ばしたくなる。この清涼感は追憶の味わいだ。鮮やかに甦る舌上の刺激を思い出すたび、また渋谷や三河島へと足を運びたくなる。

文・写真:松浦達也