
この数年、東京の町焼肉が劇的に進化している。今回、ご紹介するのは食いしん坊倶楽部LINEオープンチャット「焼肉部」Jayさんからの推薦店、渋谷の「ヤキニク ホルモン どうげん」です。
気づけば丸16年が経つ。オープン当時、周囲は風俗店と脱法ハーブの店ばかり。そんな渋谷の裏通りで金京男さんは、トタン張りの店内でビールケースにベニヤ板を乗せただけのテーブルで焼肉店を開業した。2009年5月のことだった。
名物メニューは「りんご」。黒毛和牛のロースなどのやわらかな薄切りを炙って、生のりんごのせん切りを巻き込んで頬張る、どうげんならではの逸品だ。注文率100%……いや、おかわりをする客もいるから注文率は120%。注文の多すぎる看板メニューだ。
最近の金さんはNHKの大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」にも出演するなど俳優業も忙しく、以前ほど店には出ていない。「でも、知り合いが来たときに顔を出せるよう(笑)」、近隣のバーで飲んでいることが多いという。メッセージを入れたらサクッと店に来てくれた。
すじポンとおかんのキムチ、それにホルモンと黒毛和牛の盛り合わせなどを注文する。「俺、盛り合わせはえこひいきするから」という金さんの言葉が本当かはわからない。「どうげん」の盛り合わせはいつだって違うものが出てくるからだ。せっかく金さんと話せるから「りんご」は後に取っておく。
「もともと僕は神戸のアパレル会社「ワールド」のラグビー部に所属していたんですが、26歳になった1993年に辞めて、母親が作るキムチを行商で売っていたんです」
会社を辞めてキムチの行商!いきなり話のネタが強いが、続く話もさらに強い。
「すると包丁を持ったこともない僕に大阪のカウンター9席の店をやらないかという話が舞い込んできた。その店がうまく行って、トントン拍子に大阪に2店目、神戸に3店目を出したら、1995年に阪神淡路大震災が起きてしまった」
市内の駅舎までも倒壊する大地震で生活インフラもすべて止まったが、金さんの立ち直りは早かった。ガスなどのインフラも復旧しない1週間後には店を再開し、昼の12時から夜24時まで営業し続け、店の前には行列ができた。その頃には精肉業界にも知り合いが増え、投資をして北海道から内臓を直取引できるようになった。肉仕事は順調だった。
「ところがその会社を1998年頃につぶしてしまったんです。次は神戸の和田岬でパチスロ店の空き店舗で手作りの店を再開しました。これも順調で大規模商業施設から声がかかったんですが、銀行から融資を受けて150坪の店舗を出したら、また失敗しちゃって」
2つ目の会社も畳んで億単位の借金を背負ったが、焼肉は金さんを放っておかなかった。焼肉店の立ち上げや知人の店を手伝いながら、2009年に大阪の鶴橋で小さな店を出した。それとほぼ同時に東京の知人から声がかかった。東京と聞いて野心に火が灯った。だが手持ち資金はない。地名を知る新宿と渋谷でとにかく安い店舗を探しまくり、坪2万円以下の物件にたどり着いた。それがいまの「どうげん」だ。
少ない人数で回せるよう、メニューは絞った。ホルモンこそ10種類を揃えたが、黒毛和牛は5種類。ほかは一品料理3種にキムチ、ライスなど。「開業からほとんど変えていない」という。
「りんご」は実は大阪の頃から出していたが、「向こうだと『へえ……』くらいの反応だったのが、こっちにきたら『これ、すごい!』と反応がやたらいい。こらあ行けるぞ、と」。ところ変われば客だって変わるのだ。
では締めの看板メニュー「ザ・麺」はどう生まれたのか。実はその正体はマルタイの棒ラーメンだ。
「知り合いの社長が来て「お前、焼肉には麺が必要やろ」って言われたけど、厨房調理は一人体制。冷麺は作れるけど、そのためだけにスープを取るほど手をかけるのはイヤだった。だからマルタイの棒ラーメンで和えそばを作ったら、当たってしまった」と姿勢と体躯のいい金さんは自然体で微笑んだ。なんてチャーミングなんだろう。つくづく「店は人なり」だ。
実は個人的に、この店の「りんご」はせん切りりんごを直火でちょっと炙ってから肉で巻くのも好きだったりする。この日もそうしていたら、金さんから「肉に乗せて焼くとええよ」とご助言が。何年かぶりに、店本来のスタイルで食べてみた。ああ、こっちもうまいなあ。
変わらぬ仕入れ、変わらぬ仕事、変わらぬ笑顔。それでも焼肉店の網の上には無限の味がある。だから焼肉はやめられない。
文・写真:松浦達也