初めてカウンター寿司を教えてくれたあの人は、異彩を放つ人物で……。「シン・ウルトラマン」、「シン・ゴジラ」など数々の日本映画を監督してきた樋口真嗣さんの、仕事現場で出会った“ゲンバメシ”の思い出を回想します。
そもそも寿司なんて子供の頃は法事の時にしか出てこなくて、しかも今描きながら思い出したけど爺ちゃんちの菩提寺が白山にあって、法事で集まるたびに決まって近所のいなり寿司屋さんが寿司桶に稲荷寿司をびっしり詰め込んだのを持ってきて、それを配ってくれるんだけど、そのお寿司屋さんのお爺さんが驚くほど色白で、本当に透けるような白さ。その白い指で艶々と輝く稲荷寿司を手際よく配膳してくれたのですが、どうしてあのお爺さんはあんなに色が白かったのか、稲荷寿司を作りすぎてお酢で色素が抜けてしまったのか?とか長いお経と説法を聞きながら考えていました。
柚の香りがほんのり漂い、全てに上品、これが山手線の内側の文明か!――と、白山という土地に対する幻想が醸成されていきました。
書いているうちに無性に食べたくなり、「白山 稲荷寿司」で検索したらあの稲荷寿司を覚えていたのは私だけではありませんでした。私なんぞより100倍馴染みであろうご近所の方がその思い出を綴っていました。
屋号は「宝らい」。
残念ながら2010年10月に閉店し、ご主人は2012年10月18日享年88歳で亡くなられてました。もっと早く思い出していれば食べられたのかも、と思うとなんともやりきれません。と言っても10年以上前なんですよね……。ご冥福をお祈りいたします。
で、人生初のカウンターで握ってもらうお寿司屋さん――東宝撮影所前の「寿司源」に連れてってくれたのは合成会社「デン・フィルム・エフェクト」の視覚効果技師、中野稔さんでした。
大学時代に円谷英二さんの家に押しかけ、そのまま弟子入りして1965年から始まる特撮TV番組「ウルトラQ」で視覚効果技師として一本立ちしました。わずか25歳の若さで合成部門を取り仕切る……この世に存在しないものとこの世に存在するものを組み合わせて一つのフィルムに重ね合わせる、特撮には切っても切れない重要なパートの責任者として活躍し続けてきたとんでもない人でした。
とんでもなさは仕事だけではありませんでした。現場に向かう自動車は初期型のフェアレディZなんですが、そのボディはスクラップ置き場にあっても不思議ではない赤錆に覆われています。時間さえあればヤスリをかけて残った塗装をガリガリと削って全身錆のマッドマックスみたいな状態を目指しているそうです。しかもエンブレムはなぜか家紋のレリーフです。とにかく目立ちます。できることなら関わり合いたくないオーラが出まくりです。
かと思えば近場まで出向く時はホンダのすごく小さい原付バイク・ゴリラにまたがっていきます。長身の中野さんが小さいバイクに乗っているとまるでボリショイサーカスのクマかアメリカからやってきたプロレスラー、マクガイヤー・ブラザースを彷彿とさせます。誰も知らないか……。さらにその原付バイクのパンクや、ヘルメットは赤錆と真反対のクロームメッキでピカピカでした。サビサビとピカピカ。両極端に振り切れ過ぎてますから個性的な人が多い撮影所界隈でも群を抜くキャラクターで、かなり近寄りがたいオーラを放っていてもそれを意に介さず、これならどのスタジオの守衛所もみんな覚えてくれるから顔パスなんだよ、と笑うのです。
そんな中野さんに目をかけられ、「寿司源」で昼からビール飲みながらお寿司をご馳走になる――。
ご主人の源さんと中野さんは同い年なので仲が良いらしく、お祝いに暖簾を贈ったりするような仲で、大概の無理が利くような関係でしたが、握り寿司を食べるのはいつも私で中野さんは太巻きだけを食べていたような気がします。あの頃から食事制限がかかっていたのかもしれません。大将が一人で切り盛りするぐらいだから決して大きな店ではく、ガラスケースの中もそんなに多い種類のネタが入っているわけではなかったけど、あいにくその当時の私はくらべるほど他で食べた事がなかったのでこういうモノなのかと勝手に納得してました。撮影所をはじめとする近隣への出前は強烈なピンク色に染めた髪のお母ちゃんがスクーターで走り回っていました。そのピンク色は時間が経つに連れて抜け落ちて紫色に変色していきました。あまり寿司と関係はないですが。そんな二人の間に生まれた娘さんは親に似合わず可愛い娘さんでした。店の手伝いをしていたけど、我々の知らぬ誰かと結婚して店に姿を現さなくなりました。これも寿司と関係ないですね。
今にして思えば身の程知らずでしたが、中野さんは寿司を食わせたいわけではなく、仕事の仕方や進め方を教えてくれようとしていたのではないか、と震え上がります。何しろ、あの時の私はまさしく25歳前。中野さんが円谷英二さんから学んでいた時期と重なるではありませんか。
それなのに、思い返せば25歳の私は生意気が過ぎたと思います。以一知萬のつもりで中野さんの元から飛び出して同世代の若いスタッフを集めて特撮監督として仕事を進めるようになりました。
当然、それで出来上がった仕事は中野さんから見たら言いたいことだらけの仕上がりだったかもしれません。会うたびに怒られるのではないかとビビって、だんだんと疎遠になってしまいました。
そのこだわりの強さは柳のように渡り歩く私に取っては偏屈に過ぎず、強談威迫は弱輩の私がやったところでなんの効果もありませんでした。
合成のやり方も経験が最優先されるフィルムで作業する時代からデジタルの時代になり、その流れに私はうまく乗れたのかもしれません。
フラフラ入って鉢合わせになるのも億劫になり、「寿司源」の暖簾をくぐることもなくなりましたが、それよりも中野さんの会社が不渡りを出して倒産してしまいました。
デジタル化の波に乗り遅れた、という一言で片付けたくないけども、一時代が終わったのを傍観することしかできませんでした。
おかげで「寿司源」には大手を振って通うこともできるようになりました。ピンク色のお母ちゃんは離婚して出て行ったらしく、後釜には娘さんが戻ってきていました。大将は出戻りだと言うのですが、本当のことは分かりません。娘さんの発案なのか、敷居の高い江戸前寿司だけでなく、細い稲庭うどんとハーフサイズの握りや太巻きをセットにしたランチを始め、これが大当たり。繁盛していました。
「寿司源」を曲がって世田谷通りに沿って坂道を降りていくと、中野さんの会社のあったマンションが通りに面しています。会社の窓にはアルミの断熱シートが内側から目張りされていて、中の様子は窺い知ることもできません。
通りがかる度にその駐車場に停まっていた錆だらけのフェアレディZがどんどん朽ち果てていってるように見えました。あの頃――撮影所から撮影所へ颯爽と渡り歩いていた錆だらけのフェアレディは、とても輝いて見えたのです。
文・イラスト 樋口真嗣
そもそも寿司なんて子供の頃は法事の時にしか出てこなくて、しかも今描きながら思い出したけど爺ちゃんちの菩提寺が白山にあって、法事で集まるたびに決まって近所のいなり寿司屋さんが寿司桶に稲荷寿司をびっしり詰め込んだのを持ってきて、それを配ってくれるんだけど、そのお寿司屋さんのお爺さんが驚くほど色白で、本当に透けるような白さ。その白い指で艶々と輝く稲荷寿司を手際よく配膳してくれたのですが、どうしてあのお爺さんはあんなに色が白かったのか、稲荷寿司を作りすぎてお酢で色素が抜けてしまったのか?とか長いお経と説法を聞きながら考えていました。
柚の香りがほんのり漂い、全てに上品、これが山手線の内側の文明か!――と、白山という土地に対する幻想が醸成されていきました。
書いているうちに無性に食べたくなり、「白山 稲荷寿司」で検索したらあの稲荷寿司を覚えていたのは私だけではありませんでした。私なんぞより100倍馴染みであろうご近所の方がその思い出を綴っていました。
屋号は「宝らい」。
残念ながら2010年10月に閉店し、ご主人は2012年10月18日享年88歳で亡くなられてました。もっと早く思い出していれば食べられたのかも、と思うとなんともやりきれません。と言っても10年以上前なんですよね……。ご冥福をお祈りいたします。
で、人生初のカウンターで握ってもらうお寿司屋さん――東宝撮影所前の「寿司源」に連れてってくれたのは合成会社「デン・フィルム・エフェクト」の視覚効果技師、中野稔さんでした。
大学時代に円谷英二さんの家に押しかけ、そのまま弟子入りして1965年から始まる特撮TV番組「ウルトラQ」で視覚効果技師として一本立ちしました。わずか25歳の若さで合成部門を取り仕切る……この世に存在しないものとこの世に存在するものを組み合わせて一つのフィルムに重ね合わせる、特撮には切っても切れない重要なパートの責任者として活躍し続けてきたとんでもない人でした。
とんでもなさは仕事だけではありませんでした。現場に向かう自動車は初期型のフェアレディZなんですが、そのボディはスクラップ置き場にあっても不思議ではない赤錆に覆われています。時間さえあればヤスリをかけて残った塗装をガリガリと削って全身錆のマッドマックスみたいな状態を目指しているそうです。しかもエンブレムはなぜか家紋のレリーフです。とにかく目立ちます。できることなら関わり合いたくないオーラが出まくりです。
かと思えば近場まで出向く時はホンダのすごく小さい原付バイク・ゴリラにまたがっていきます。長身の中野さんが小さいバイクに乗っているとまるでボリショイサーカスのクマかアメリカからやってきたプロレスラー、マクガイヤー・ブラザースを彷彿とさせます。誰も知らないか……。さらにその原付バイクのパンクや、ヘルメットは赤錆と真反対のクロームメッキでピカピカでした。サビサビとピカピカ。両極端に振り切れ過ぎてますから個性的な人が多い撮影所界隈でも群を抜くキャラクターで、かなり近寄りがたいオーラを放っていてもそれを意に介さず、これならどのスタジオの守衛所もみんな覚えてくれるから顔パスなんだよ、と笑うのです。
そんな中野さんに目をかけられ、「寿司源」で昼からビール飲みながらお寿司をご馳走になる――。
ご主人の源さんと中野さんは同い年なので仲が良いらしく、お祝いに暖簾を贈ったりするような仲で、大概の無理が利くような関係でしたが、握り寿司を食べるのはいつも私で中野さんは太巻きだけを食べていたような気がします。あの頃から食事制限がかかっていたのかもしれません。大将が一人で切り盛りするぐらいだから決して大きな店ではく、ガラスケースの中もそんなに多い種類のネタが入っているわけではなかったけど、あいにくその当時の私はくらべるほど他で食べた事がなかったのでこういうモノなのかと勝手に納得してました。撮影所をはじめとする近隣への出前は強烈なピンク色に染めた髪のお母ちゃんがスクーターで走り回っていました。そのピンク色は時間が経つに連れて抜け落ちて紫色に変色していきました。あまり寿司と関係はないですが。そんな二人の間に生まれた娘さんは親に似合わず可愛い娘さんでした。店の手伝いをしていたけど、我々の知らぬ誰かと結婚して店に姿を現さなくなりました。これも寿司と関係ないですね。
今にして思えば身の程知らずでしたが、中野さんは寿司を食わせたいわけではなく、仕事の仕方や進め方を教えてくれようとしていたのではないか、と震え上がります。何しろ、あの時の私はまさしく25歳前。中野さんが円谷英二さんから学んでいた時期と重なるではありませんか。
それなのに、思い返せば25歳の私は生意気が過ぎたと思います。以一知萬のつもりで中野さんの元から飛び出して同世代の若いスタッフを集めて特撮監督として仕事を進めるようになりました。
当然、それで出来上がった仕事は中野さんから見たら言いたいことだらけの仕上がりだったかもしれません。会うたびに怒られるのではないかとビビって、だんだんと疎遠になってしまいました。
そのこだわりの強さは柳のように渡り歩く私に取っては偏屈に過ぎず、強談威迫は弱輩の私がやったところでなんの効果もありませんでした。
合成のやり方も経験が最優先されるフィルムで作業する時代からデジタルの時代になり、その流れに私はうまく乗れたのかもしれません。
フラフラ入って鉢合わせになるのも億劫になり、「寿司源」の暖簾をくぐることもなくなりましたが、それよりも中野さんの会社が不渡りを出して倒産してしまいました。
デジタル化の波に乗り遅れた、という一言で片付けたくないけども、一時代が終わったのを傍観することしかできませんでした。
おかげで「寿司源」には大手を振って通うこともできるようになりました。ピンク色のお母ちゃんは離婚して出て行ったらしく、後釜には娘さんが戻ってきていました。大将は出戻りだと言うのですが、本当のことは分かりません。娘さんの発案なのか、敷居の高い江戸前寿司だけでなく、細い稲庭うどんとハーフサイズの握りや太巻きをセットにしたランチを始め、これが大当たり。繁盛していました。
「寿司源」を曲がって世田谷通りに沿って坂道を降りていくと、中野さんの会社のあったマンションが通りに面しています。会社の窓にはアルミの断熱シートが内側から目張りされていて、中の様子は窺い知ることもできません。
通りがかる度にその駐車場に停まっていた錆だらけのフェアレディZがどんどん朽ち果てていってるように見えました。あの頃――撮影所から撮影所へ颯爽と渡り歩いていた錆だらけのフェアレディは、とても輝いて見えたのです。
文・イラスト 樋口真嗣