鎌倉にあるとあるユニークなカレー店を訪れた松尾さん。シンプルなのに一度食べたら心をつかんで離さない「極楽」な一皿とは――。
鎌倉駅から少し歩くと「下馬(げば)」という交差点がある。ここで馬から降りて、鶴岡八幡宮に参拝せよという意味だと聞いたことがある。世田谷区にも「下馬」はあるが、これは「しもうま」と読み方が違う。違うが、由来は源頼朝が出した令で、やはり「馬から降りよ」ということからだが、ここは「馬引沢村」が上と下に分けられて「下馬引沢村」となり、省略されて「下馬」となった地名なので、言葉の成り立ちは違うが、どちらも源氏ゆかりというのが面白い。
さて、そこから横道に入り、横須賀線の踏切を越えた所にある「極楽カリー」はなかなかの独創的な店である。大抵は一人で回しておられるカレー店で、厨房でカレーを作るのも、配膳するのも、外に並んでいる客に人数を聞いたり説明をしたりするのも、すべてひとりだ。
横浜のとある有名店で修行なさって独立したという流れを聞けば、この強烈な個性もさもありなんと思う。パキスタン風というのだろうか、スパイスは使えど調味料と呼ばれるものは塩しか使わず、肉などの具材の旨味だけで根気よく仕上げるというところは共通する世界なのだろう。
シンプルだが他にはない味わいと素朴な香りがついついクセになる。並んでも食べたくなるのは、このシンプルさも手伝っているのではないだろうか。添えられたミニサラダの木耳がいい役割を果たしていて、これだけで一杯飲めそうな塩梅なのである。カウンターやテーブルに壺のような入れ物が置いてあり、蓋を開ければ長胡椒(ロングペッパー)の香りがほのかにする。「極楽粉」と名付けられたこの粉は、アーユルベーダのオリジナルスパイスに、独自の2種を足して作られているそうだ。いや、その香りはいかにも体に良さそうだが、効能を売りにはしていない様子。ご主人が「イリーガルなものは入ってません」と言ってくれるのは半分ギャグなのかも知れないが、この香りはお得感がある。
カレーは一見少なめの盛り方に感じたが、食べている間にそれが単なる錯覚だったことがよくわかるボリュームだ。しかし、小麦粉不使用なので胃にもたれることもない。外で待っている外国人客に「時間がかかりますよ」と言っても帰らないのだとか。グルテンフリーであることを調べて来ているので、なかなか諦めないのだという。
何と、ご主人は我が師・中島らもの熱烈なファンだそうで、手が空けば四方山話に付き合ってくれる。今は、高温多湿の日本の気候に栽培が適さないと言われるクミンの国産になぜかチャレンジ中だそうで、今の成功率はたったの3%だという。昨今の国際情勢から、日本からクミンが消えてしまいかねないと危惧しての活動だ。目の前のカウンター上に飾られているのはドライフラワーではなく、収穫された貴重なクミンだったのだ。
店内の書籍群に圧倒される中、「極楽語」なるご主人の著作を発見、これまた独創的だ。すべて手書きの筆跡を印刷した文庫本型のアート作品だが、これは現地で買い求めるのがいいかも知れない。ユニークな発想がいい刺激になること請け合いだ。
デザートに「極楽ヨーグルト」をいただいた。なんとも華やかで、浄土を思わせる世界に浸り、タップリのチャイを啜って幸せを感じたのは言うまでもない。
文・撮影:松尾貴史