自然を味わう旅〜北陸の農泊を訪ねる
奥能登の魚醤"いしる"の製造元を訪ねて

奥能登の魚醤"いしる"の製造元を訪ねて

「里山まるごとホテル」で供される料理には、能登の素朴にして豊かな食文化を物語る符号がちりばめられている。それは、たとえば盛り付けにさりげなく使われる輪島塗の漆器であったり、醤油よりも古くから愛用されてきた魚醤“いしる”の旨味であったり、その奥深い風味にぴたりと寄り添う地酒であったり。伝統の技と味を守り継ぐ人々を訪ねて、里山から里海へのショートトリップを楽しんだ。

どんな料理にも万能。体にも自然にもやさしい究極の発酵調味料

いしる
「舳倉屋」のいしるは、他のそれよりも透明感のある美しい琥珀色。魚醤独特の風味はあるが、角の取れた旨味のまろやかさが先に立ち、生臭さは一切感じられない。

能登の“まいもん(旨いもの)”には、“いしる”の存在が欠かせない。奥能登に古くから伝わり、秋田のしょっつる、香川のいかなご醤油と並ぶ日本三大魚醤のひとつ。“魚汁”がなまった呼称で、地域によっては「いしり」や「よしる」とも呼ばれる。

「里山まるごとホテル」の食事にも、野菜の“いしる煮”や、いしるで下味をつけた魚の風干しなど、能登らしいしる使いの料理が多く登場する。愛用するのは、オーナーの山本さんが「臭みがなくて抜群にまろやか」と絶賛し、「茅葺庵」の店頭でも販売する「へぐら屋さんのいしる」。「これ以上ないくらい自然な造り方をされてるんですよ」との言葉に好奇心をくすぐられ、製造元の「舳倉屋」を訪ねてみた。

舳倉屋
本社工場と売店は能登の名所「白米千枚田」にもほど近い、日本海沿いの国道249号線脇に立地。いしるを使った体験型ワークショップも定期的に開催している。
律子さん
女将の岩崎律子さん。いしるの魅力を語らせたら右に出る者なしの頼もしい“いしる大使”ぶり。明るくチャーミングな人柄で県外にも多くのファンをもつ。

「舳倉屋」は1989年の創業。輪島朝市で魚の商いをしていた「岩崎商店」を前身にもち、魚介の干物や塩辛などの製造販売を手がける家族経営の水産加工メーカーだ。
「いしるをつくるようになったのは、加工で出る内臓などの廃棄物を活かそうと考えたのがきっかけだったと聞いています。自社のいしるを干物などの加工に使って、そこで出た内臓をまたいしるの仕込みに使う。余すところがないんです」

無駄なく循環する“いしる”製造の図をわかりやすくイラスト化。発酵液を抽出した後のもろみは養豚の飼料になることもあるそうだが、「うちでつくるのは、そもそも廃棄物があまり出ないんです。よく発酵して溶けきってしまうからでしょうかね?」と岩崎さん。


営業に駆け回る現社長の岩崎直さんに代わって、女将の律子さんがそう説明してくれた。律子さんは能登から遠く離れた山口県下関市の出身。12年前、結婚を機に輪島に移り住むまでは、いしるとは縁のない食生活だったそう。それが今では「料理が上手になったと錯覚させてくれる万能調味料。使わない日はありません!」とゾッコン。調味料づくりの体験ワークショップや発酵マルシェを主宰するなど、いしるファンを広げるための広報活動にも力を注ぐ。

発酵・熟成を奥能登の自然環境に委ねたいしる造り

「舳倉屋」の看板商品のいしるは、イカの内臓を食塩のみで漬け込み、1年から2年発酵・熟成させたもの。水揚げ状況によって、外海で多く獲れるイワシやサバが主役に回ることも。いずれにしても、仕込み法は原始的と言ってよいほどにシンプルだ。
「新鮮なイカの内臓(またはイワシやサバ)に塩をして、タンクいっぱいになるまで入れて、密閉させて1年半くらいほおっておく。本当にそれだけ。途中で混ぜたりもしません」

しかも、発酵は屋根もないむき出しの自然環境の中で行われているという。本当に!?信じがたい思いで現場へと案内してもらうと、海岸線に沿ってしばらく車を走らせた先に、その光景が現れた。キラキラと輝く日本海を背景に、野ざらしで並んだ32台の無骨なタンク。まるでナスカの地上絵のように謎めいてシュールな光景だ。

タンク

塩分調整と発酵の見極めが仕上がりを左右する

タンク
遠目には石のタンクに見えるが実はプラスチック製。下部から発酵が進むため、底に近い部分の蛇口から液を取り出し、濾過の後に瓶詰して出荷する。減った分は上からいっぱいになるまで継ぎ足していく“鰻のタレ”方式。「塩漬け初日から2日目頃は、ブクブクいって匂いもなかなか強烈です(笑)」

訪れた日は気温33℃の真夏日。湿潤で年間の寒暖差が激しい奥能登の気候は発酵食づくりに適しているといわれるが、さすがにこの暑さで傷みはしないのだろうかと心配になる。
「それが大丈夫なんです。むしろ、猛暑の年のほうが味がいいくらい。微生物がしっかり働いてくれるんでしょうね(笑)」と岩崎さん。むしろ、出来を左右するのは「気候条件より塩加減」だとも。

「ほったらかしだからこそ、最初の塩分調整がとても大事。イカの産地や獲れる時期によって内臓の状態も変わるので、塩の量と発酵具合の見極めに長年のカンと経験が必要なんです」

いしる
主力商品は内海で獲れるイカのいしるだが、水揚げ状況によってはサバやイワシの仕込みが加わることも。実は全国チェーンのコンビニの店頭にも商品が並ぶ実力派。

お土産に持ち帰ったいしるを家で試してみて、改めて唸ってしまった。雑味を一切感じさせない、イカの風味の上品なこと。TGK、パスタ、冷奴、野菜のおひたし、素麺のつゆ代わりにも。簡単な使い方であればあるほど、ひと差しの凄みがわかる。ぴたりとブレずに味が決まり、そして後を引く。塩味のカドが取れ、旨味と完全に一体化した熟(な)れ具合。まさしく風土が守り育てたまろやかさだ。

味わいながら、あの大らかな屋外タンクの風景と、能登の湿った浜風の肌ざわりが甦ってきた。

文・堀越典子 撮影・赤澤昂宥

堀越 典子

堀越 典子 (ライター)

千葉県出身。武蔵野音楽大学卒業後、ピアノ講師→音楽系出版社→編集制作会社勤務を経て独立。気がつけば、もっぱら酒食部門担当のライターに。dancyuをはじめ雑誌、PR誌、WEB媒体に食・酒・旅まわりの取材記事を寄稿。大好物はスペイン。サンティアゴ巡礼路歩きが15年来のライフワーク。