「里山まるごとホテル」で供される料理には、能登の素朴にして豊かな食文化を物語る符号がちりばめられている。それは、たとえば盛り付けにさりげなく使われる輪島塗の漆器であったり、醤油よりも古くから愛用されてきた魚醤“いしる”の旨味であったり、その奥深い風味にぴたりと寄り添う地酒であったり。伝統の技と味を守り継ぐ人々を訪ねて、里山から里海へのショートトリップを楽しんだ。
能登の“まいもん(旨いもの)”には、“いしる”の存在が欠かせない。奥能登に古くから伝わり、秋田のしょっつる、香川のいかなご醤油と並ぶ日本三大魚醤のひとつ。“魚汁”がなまった呼称で、地域によっては「いしり」や「よしる」とも呼ばれる。
「里山まるごとホテル」の食事にも、野菜の“いしる煮”や、いしるで下味をつけた魚の風干しなど、能登らしいしる使いの料理が多く登場する。愛用するのは、オーナーの山本さんが「臭みがなくて抜群にまろやか」と絶賛し、「茅葺庵」の店頭でも販売する「へぐら屋さんのいしる」。「これ以上ないくらい自然な造り方をされてるんですよ」との言葉に好奇心をくすぐられ、製造元の「舳倉屋」を訪ねてみた。
「舳倉屋」は1989年の創業。輪島朝市で魚の商いをしていた「岩崎商店」を前身にもち、魚介の干物や塩辛などの製造販売を手がける家族経営の水産加工メーカーだ。
「いしるをつくるようになったのは、加工で出る内臓などの廃棄物を活かそうと考えたのがきっかけだったと聞いています。自社のいしるを干物などの加工に使って、そこで出た内臓をまたいしるの仕込みに使う。余すところがないんです」
営業に駆け回る現社長の岩崎直さんに代わって、女将の律子さんがそう説明してくれた。律子さんは能登から遠く離れた山口県下関市の出身。12年前、結婚を機に輪島に移り住むまでは、いしるとは縁のない食生活だったそう。それが今では「料理が上手になったと錯覚させてくれる万能調味料。使わない日はありません!」とゾッコン。調味料づくりの体験ワークショップや発酵マルシェを主宰するなど、いしるファンを広げるための広報活動にも力を注ぐ。
「舳倉屋」の看板商品のいしるは、イカの内臓を食塩のみで漬け込み、1年から2年発酵・熟成させたもの。水揚げ状況によって、外海で多く獲れるイワシやサバが主役に回ることも。いずれにしても、仕込み法は原始的と言ってよいほどにシンプルだ。
「新鮮なイカの内臓(またはイワシやサバ)に塩をして、タンクいっぱいになるまで入れて、密閉させて1年半くらいほおっておく。本当にそれだけ。途中で混ぜたりもしません」
しかも、発酵は屋根もないむき出しの自然環境の中で行われているという。本当に!?信じがたい思いで現場へと案内してもらうと、海岸線に沿ってしばらく車を走らせた先に、その光景が現れた。キラキラと輝く日本海を背景に、野ざらしで並んだ32台の無骨なタンク。まるでナスカの地上絵のように謎めいてシュールな光景だ。
訪れた日は気温33℃の真夏日。湿潤で年間の寒暖差が激しい奥能登の気候は発酵食づくりに適しているといわれるが、さすがにこの暑さで傷みはしないのだろうかと心配になる。
「それが大丈夫なんです。むしろ、猛暑の年のほうが味がいいくらい。微生物がしっかり働いてくれるんでしょうね(笑)」と岩崎さん。むしろ、出来を左右するのは「気候条件より塩加減」だとも。
「ほったらかしだからこそ、最初の塩分調整がとても大事。イカの産地や獲れる時期によって内臓の状態も変わるので、塩の量と発酵具合の見極めに長年のカンと経験が必要なんです」
お土産に持ち帰ったいしるを家で試してみて、改めて唸ってしまった。雑味を一切感じさせない、イカの風味の上品なこと。TGK、パスタ、冷奴、野菜のおひたし、素麺のつゆ代わりにも。簡単な使い方であればあるほど、ひと差しの凄みがわかる。ぴたりとブレずに味が決まり、そして後を引く。塩味のカドが取れ、旨味と完全に一体化した熟(な)れ具合。まさしく風土が守り育てたまろやかさだ。
味わいながら、あの大らかな屋外タンクの風景と、能登の湿った浜風の肌ざわりが甦ってきた。
文・堀越典子 撮影・赤澤昂宥