湯島聖堂の料理帖~戦後の日本に伝わった“本当の中国料理”~
湯島聖堂 中国料理研究部のこと

湯島聖堂 中国料理研究部のこと

現代日本の中国料理の礎を築いた湯島聖堂「中国料理研究部」。その貴重なレシピと歴史を紐解く連載です。第1回目は、なぜ聖堂で中国料理がつくられたのか、どう継承されたのか、時代背景から解説します。

「聖堂料理」とはどんな中国料理なのか

中国清代に書かれた美食の名著『随園食単』を傍らに、一途に中国料理を探求してきた名料理人がいる。2019年に惜しまれながら閉店した「知味 竹廬山房(ちみ ちくろさんぼう)」の主人、山本豊さんだ。山本さんは、中国料理の歴史と文化を踏まえ、新旧取り交ぜたコース料理を構築。乾物使いの名手として知られ、素材を生かした滋味あふれる料理で多くの食通を魅了した。

山本豊さん
元「知味 竹廬山房」のオーナーシェフ、山本豊さん。同店出身者には経堂「彩雲瑞(さいうんすい)」の千脇幸夫さん、「赤坂 桃の木」の小林武志さん(現在は退職)、大阪「一碗水(イーワンスイ)」の南茂樹さん、北海道「玩味(ワンウェイ)」の吉井信貴さんなど実力派が揃う。

そんな2022年dancyu1月号「新しい家中華」で山本さんに取材したときに食べた青菜炒めは、今でも時折思い出すほど鮮烈な一皿だった。みずみずしさの奥からやってくる茎のほのかな甘味と葉の苦味。そして何より香味野菜の香りをまとった油が、冷めてもすっきりと清い。しかもその青菜炒めがつくられたのは、家庭用コンロしかないキッチンスタジオで、材料や調味料も普通にスーパーで手に入るものばかり。調理の仕方ひとつで、シンプルな青菜炒めはこんなにも味わい深くなるのだと思い知らされた。

青菜炒め
山本さんの青菜炒め。ねぎの青い部分や生姜の皮などで油に香味野菜の香りをまとわせた「熟油」を使うのがポイント。

そんな山本さんの料理の原点は「聖堂料理」にある。聖堂料理とは、江戸時代から続く学問の殿堂「湯島聖堂」(東京・湯島)に昭和30〜40年代にかけて存在した「中国料理研究部」でつくられていた料理のことだ。

本場中国の古典を紐解き、レシピを起こした

「中国料理研究部」の興りは終戦直後、中国文学者の原三七が中国から引き揚げ、湯島聖堂に身を寄せたことに端を発する。誰もがお腹を空かせていた時代、原は助手に命じて簡単な料理をつくらせ、聖堂に集う学者や留学生らにふるまった。

出されていたのは安価なレバーや豚マメなどを使った炒めものが中心で、北京の家庭で日常的に食べられていた料理だった。北京料理は砂糖を多用せず、シンプルな味つけで素材の旨味を引き出すのが基本だ。ひるがえって、当時日本で中国料理といえば、酢豚やかに玉など広東系の甘酸っぱい、こってりとした料理が主流だった。本場北京にならった、軽やかな味わいの聖堂料理はたちまち評判となった。

そこで原は「食文化を知らずして、中国文化を語るなかれ」をモットーに、中国文化研究の一環として「中国料理研究部」を立ち上げる。昭和35(1960)年8月、中国の文化と料理をよりよく味わうための手引きとして、冊子『中国菜』を創刊。翌9月からは、大々的に料理講習会をスタートさせた。

『中国菜』
昭和42(1967)年まで7号にわたって刊行された『中国菜』。作家や中国文学研究者など豪華執筆陣の論考やエッセイ、珍しいレシピが掲載されている。

講習会は、講師がはじめに料理の由来や文化的背景を解説し、調理のデモンストレーションを行う形式だった。レシピのもとになったのは、中国の古い料理書だ。原書にあたって翻訳し、中国帰りの食通の学者たちに聞き取りもした。そして試作を繰り返し、原をはじめ本場の味を知る人がOKを出した料理だけがレシピ化されていった。

やがて講習会には、料理人や料理学校の教師など料理のプロを中心に100人余りが詰めかけるまでに成長した。20人ほどの女性講師に加え、10数人ほどの男性料理人が住み込みで働き、財界人や文化人からの依頼で出張料理にも精を出すようになった。

湯島聖堂の重い鉄の扉を開け、高校を卒業したばかりの一人の青年が入ってきたのはちょうどその頃だった。時は昭和43(1968)年、若き日の山本さんである。

「ガシャーンと聖堂の扉が閉まったとき、魔界に入った気がした」と語る山本さん。うずたかく積まれた書籍に囲まれ、たちまち中国料理の魔力に吸い寄せられていった。といっても、湯島聖堂に特別な厨房設備はなかった。毎朝、中庭に作業台代わりの折りたたみ机を出し、石油バーナーで火をおこすところから料理が始まる。そして日中は青空の下で鍋を振り、夜になると宿直室の三段ベッドにもぐり込み、書庫にある膨大なガリ版刷りのレシピをひとつずつ手書きで写した。

中国料理研究部はその後、御茶ノ水に中国料理店「知味飯店」を出店するなど拡大を続け、山本さんも腕を振るった。しかし昭和40年代後半、原が病に伏したことをきっかけにその活動は徐々に縮小していった。

歴史的にも貴重なレシピの数々を公開

白身魚の五柳あんかけ
清王朝の宮廷料理「五柳魚」(白身魚の五柳あんかけ)。衣揚げにした白身魚に薄いあんかけをかける。五柳は5種の細切り材料を表す風流な言葉。
あんかけ
カリッとした衣と、とろっとなめらかなあんかけの食感のコントラストは、中国料理ならでは。素材によって微妙にとろみを調節する。

中国料理研究部の功績は、当時情報も少なく、なじみが薄かった北京の宮廷料理や家庭料理を中心に、“本物の中国料理”の味を広めたことだ。また、関係者らの手によって『中国名菜譜』の翻訳や『中国食文化事典』の編纂が行われたことも、日本における中国料理の発展に大いに寄与した。

山本さんが店名に冠した「知味」は、「人莫不飲食也、鮮能知味也(飲食をしない人はいないが、味をよく知る者は少ない)」という孔子の言葉にちなむ。誰もが飲み食いするが、味の本質や実践の方法を深く理解する者は少ないーー。冊子『中国菜』2号にも掲げられた、中国料理研究部のいわば合言葉だ。原の助手として湯島聖堂で最初に料理をつくり、のちに中国料理研究部の支柱となった中山時子は、山本さんをはじめ聖堂出身の料理人らにこの言葉を託したのだ。なお、お茶の水大学で中国文学を教えていた中山は、山本さんのバイブル『随園食単』を訳した人物でもある。

山本さんの手元には、今も裸電球の明かりを頼りに書き写したものをはじめ、数百に及ぶ貴重な聖堂レシピが残る。どんな味だろうと想像を膨らませた18歳の時から55年、繰り返しつくられてきた料理の数々。“本物の中国料理”の味を深く知ろうとした人々が残したレシピには、今なお中国料理の本質に迫る新しい驚きと学びがある。次回からは山本さんの手ほどきと解説のもと、中国料理研究部の名菜を紐解いていくことにしよう。

教える人

山本豊

山本豊

1949年高知県生まれ。68年、中国料理研究部に所属し、中国料理の道に進む。76年より中国料理研究部出身の故小笹六郎さんが開いた「知味斎」に勤務。87年、東京・吉祥寺に「知味 竹廬山房」をオープンし、旬の素材を取り入れた月替りのコース料理で中国料理界に新風を巻き起こした(2019年閉店)。著書『鮮 中国料理味づくりのコツ たまには花椒塩を添えて』、共著『野菜の中国料理』、『乾貨の中国料理』(すべて柴田書店)など携わった本は、中国料理を志す人にとって必携の書になっている。

文:澁川祐子 撮影:今清水隆宏

澁川 祐子

澁川 祐子 (ライター・編集者)

食と工芸を中心に編集、執筆。著書に『味なニッポン戦後史』(インターナショナル新書)、『オムライスの秘密 メロンパンの謎ー人気メニュー誕生ものがたり』(新潮文庫)、編集・構成した書籍に山本教行著『暮らしを手づくりするー鳥取・岩井窯のうつわと日々』(スタンド・ブックス)、山本彩香著『にちにいましーちょっといい明日をつくる琉球料理と沖縄の言葉』(文藝春秋)など。